<芽吹く言の葉>~短歌をともに志す方々の集いのページです

<芽吹く言の葉>・・・<美し言の葉>の添削コーナーにご参加下さった方々の作品を中心とする、あたらしく短歌の道を志す方たちのページです。また、すでに長く短歌を詠まれている方々も、発表の場、切磋琢磨の場として、このコーナーをご利用下さい。

        

2020.1.19                                作者:水木果容

*福袋 誕生日なる我祝い 若夫婦より、ざっくざくざく

 

一首の短歌作品を書く上で、一字アケ、読点を用いること、いずれも表現上の工夫、技巧としてあり得ることですが、注意すべきは、そのことが逆に目立ちすぎない(マイナスにならない)ことと、それによって歌作品が生きる、攻めの技巧となることです。

また「ざっくざくざく」が作者にとっての眼目であると思われますが、読者がどう受け取るかにも、十分な配慮が必要です。特に七音の句をすべて「遊び」の要素が強い表現にすることは、「冒険」であると言えましょう。

 そこでまず一案、五音の三句に「ざっくざく」を置く添削案をお示しします。

 

福袋若夫婦よりざっくざく誕生日なる我が祝いに

 

 二案として、「ざっくざくざく」を七音のまま生かしますが、それだけが単独になる形でなく、結句への修飾となる四句に置く案を作りました。

 

若夫婦わが誕生日に福袋ざっくざくざく送り呉るるも

 

いずれも一種の短歌作品としてのまとまり、流れを重視したものです。ご一考下さい。

 

 

*花のごとポインセチアの葉の赤き華やぎ添えるクリスマスイブ

 

 「ごと」は助動詞「ごとし」(形式形容詞説もあります)の語幹であり、万葉集などでも使用例がみられます。しかしながら、近代・現代の短歌では、「ごと」ではなく「ごとし」「ごとく」ときちんと表す形で一首を斡旋する方が良いという批評の説が一つあります(必ずしもその限りではない、とも言えますが)。この作の場合だと、「花のごとく」と初句六音の字余りにしても、その方が一首全体のバランス、すわりが良いと考えられます。

 

花のごとくポインセチアの葉は赤し華やぎ添えるクリスマスイブ

 

花のごとくポインセチアの葉は赤しクリスマスイブに華やぎ添える

 

 また、上句のポインセチアの描写はいいのですが、「赤き」と連体形で止める必然性はないですから、「葉は赤し」と三句切れにした方が良いですね。また上句でポインセチアが主体となっているので、「クリスマスイブに華やぎ添える」とした方が、文脈が整うだろうというのが、添削案の二案目です。

 

*初詣 手をつなぎおり若夫婦 家内安全祈りおるらん

 

 この御作も、一首目と同じく一字アケを用いています。一首目に小田原が指摘した通り、攻めの技巧になっているか否かが問題となりますが、漢字の重なりを避けるための一字アケとも取れ、少し不用意ではないかと思われます。

 また、古語の助動詞「おり(おる)」が、一首のなかで重複して使われているので、二句は「つなぎいる」としたいところです。

 下句は良いのですが、するっと流れてしまうように感じられます。そこで、四句と結句をひっくり返し、「祈りおるらん家内安全」と体言止めにすることで、屈折を作ってみました。ご一考下さい。

 

初詣に手をつなぎいゐる若夫婦祈りおるらん家内安全

 

 

 

 

 

2019.12.15                                作者:みずしらず

     インフラがどれほど発達しようとも未だ勝てぬぞ ヤマタノオロチよ

 

ヤマタノオロチは、古事記から語られている大変存在感のある生き物(?)です。魅力

的なのは素戔嗚尊(スサノヲノミコト)なのかも知れませんが、歌の中に「ヤマタノオロチ」が出てくるだけで、インパクトのあるものになりますね。

 さて、作品もある意味「難解」でありながら、なかなか魅力的です。ただ歌意、とりわけ作者の意図は、少々読み解きにくいものがあります。一番わかりにくいのは、四句の「勝てぬぞ」でしょう。

 勝てないのは、ヤマタノオロチなのか、インフラが発達した現代社会なのか。その決着をつけることより、五句三十一音の一首が有しているインパクト、味わいを楽しめることから、まず「魅力的」と評しました。

 しかしながら、作者としては、「読者がどこまでわかってくれるか」あるいは「どのように読まれるか」を計算して短歌を書き、差し出す必要があります。また私ども批評・添削に当たる者は、そこを整理して作歌がなされるよう、指摘する立場にありましょう。

 用いられている言葉に即して考えると、「未だ勝てぬぞ ヤマタノオロチよ」の呼びかけは、ヤマタノオロチに対してのものであり、すると当然、勝てないのはヤマタノオロチということになります(歌意A)。 

一方「インフラがどれほど発達しようとも」の「とも」は仮定の逆接であり、「インフラ(インフラストラクチャー)」は人間社会の「社会基盤、社会資本」ですから、人間社会の基盤的構造物がどれほど発達したとしても、ヤマタノオロチには勝てない、という文脈になるでしょう。この場合ヤマタノオロチは伝説の怪物ではなく、自然、深山の脅威ということになるのでしょうか(歌意B)。

しかし古事記以来のヤマタノオロチは、人間(神)である素戔嗚尊に倒されているわけですから、「意味」に従って考えるなら、「どんなに進化しても勝てないんだぞ、ヤマタノオロチよ。」と言い放ってやるのが、読者一般が自然にイメージするところだと思われます。

たとえば「インフラ」の四音を「ハイテク」に置き換えてみるとしたら、「どんなにハイテク化して強くなっても、人間社会には勝てないぞ」という意となって、「わかりやすい」ことにはなります。が、作者が「インフラ」の語を用いているのは、特別の意図があってのことでしょう。その「インフラ」の真意がわからないと、作者の意図に沿った添削も、むずかしいということになってしまいます。

その前提で、現在わかる範囲ではありますが、歌意ABそれぞれについて、添削案を作ってみました。

 

 Aいかほどにハイテク武装しようとも未だ勝てぬぞ ヤマタノオロチよ

 

Bインフラが発達すれどまだ勝てぬ ヤマタノオロチや天変地異には

 

 「意味」を通すだけでは詩、歌にはならないので、真意を深く詠みこんで、推敲なさってみて下さい。

 

 

     天神の梅の隣の歌碑眺む 我がハナミズキも春な忘れそ

 

天神、梅、「春な忘れそ」とあれば大抵の読者は太宰府天満宮の菅原道真の飛梅伝説、そして

 

「東風吹かばにほひおこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ」

 

の、菅原道真の短歌を思い起こすことでしょう。そこに作者の大事になさっているハナミズキを繋げる歌想、とても良いと思います。

 ただ、せっかく幻想的な飛梅伝説を歌になさっているのに、「梅の隣の歌碑眺む」としてしまうと、現実に引き戻されてもったいない感じがします。そこで、実際梅の花の盛りに天神を訪れたかどうかの事実は別として、「天神の真盛りの梅見上げたり」とします。下句の「我がハナミズキも春な忘れそ」の本歌取りは成功していると思います。ただ、「も」は不要ではないでしょうか。「春な忘れそ」自体が呼びかける意味を持つので、「我がハナミズキ春な忘れそ」とダイレクトに畳みかける方が、この御作は生きてくると思います。

 

天神の真盛りの梅見上げたり 我がハナミズキ春な忘れそ

 

 

     秋晴れの世界遺産で物を乞ふ少年の眼は空を知らずや

 

世界遺産。これはいったいどこの世界遺産でしょうか。それは読者に想像の楽しみを与えていて、わざわざどこそこの世界遺産と詠んだら説明になってしまいますね。ただ、「物を乞う少年」がいる世界遺産は、どこか外国だと思わせます。そう考えたとき、「秋晴れ」という言葉が気になってきます。「秋晴れ」は、日本固有の呼び方だと思われるからです。ですから、ここは「晴れわたる」としてはいかがでしょうか。また「世界遺産で」の「で」は、場所を固定してしまうので、ひろく意味を持たせる「に」に改めます。「少年の眼は空を知らずや」は魅力的な表現です。しかし、もう一歩踏み近んで、「少年の眼よ空を知らざる」と、少年に憐憫の意も込めて、訴えかけてみてはいかがでしょうか。

 

 

晴れわたる世界遺産に物を乞ふ少年の眼よ空を知らざる

 

 

 

 

2019.11.11                      作者:水木果容

*ペイペイのポイント付きて 汗涙の労働の価値どこにいきしか

 

ペイペイなどのキャッシュレスの媒体が増え、ポイントもほいほいとついて、なんだかわけの分からない世界になってきましたね。この御作はそのことを上手な角度で切り取っていると思います。ただ、「汗涙」という言葉が気になります。広辞苑第四版で引くと、「かんるい」という読みでは「感涙」しか載っていません。従って、この「汗涙(かんるい)」は、水木様の造語と言ってよいかと思います。短歌作品で造語を使うのは悪いことではありませんが、もう少しやわらかく表現した方が、この御作の場合にはふさうかと思います。

また、上句の「ペイペイのポイント付きて」ですが、「付きて」がややありきたりの表現のように思えます。そこで、ちょっと冒険をして、「ポイント爆ぜて」としてみました。「爆ぜる」は文字通り「爆発する」の意ですが、バブルの頃のお金が泡となって爆ぜているようなイメージで使ってみました。いかがでしょうか。

 

ペイペイのポイント爆ぜて 消え失せし汗と涙の労働の価値

 

 

*大神楽第一号が紅白の花びら重ねいま開きおり

 

大神楽という植物を存じ上げていなかったので、検索したところ、椿の品種なのですね。写真を見ると、紅白の花びらが重なり合って、とても華やかな、素敵な花であることが分かりました。原歌のままでもよいと思います。ですが、初句で「大神楽第一号」と言ってしまうと、インパクトが初句にかかり、下句にかけてやや尻すぼみになってしまっている気も致します。そこで、三句、四句の「紅白の花びら」を初句にもっていき、結句は強調の係助詞「ぞ」を用い、「今ぞまします」としてみました。

 

紅白の花びら開き大神楽第一号が今ぞまします

 

 

*南天の紅白揃い実を付けて新生活を祝いおるかな

 

 この御作も植物を詠ったものですね。紅白の南天の情景や、新生活を祝っているという歌意も、瑞々しくとても良いと思います。佳歌と言えましょう。ただ、上句から下句まで、するっと流れて行ってしまう感じがやや気になります。そこで三句で「実を付けぬ」と、完了の助動詞「ぬ」を用い、いったん切ります。そして、結句の「祝いおるかな」ですが、「おる」は継続を表す動詞ですから、間違いではないのですが、「祝ってくれる」の意の「祝いくるるも」とまとめたほうが、南天の立ち位置もより活きてくるのではないかと思い、このようにしてみました。

 

 

南天の紅白揃い実を付けぬ新生活を祝いくるるも

 

 

 

 

 

2019.10.13                         作者:みずしらず

     愛されて愛されすぎた夕顔に思いを馳せて水をやる夕

 

魅力的だが少々刺激的、悪く言うと歌謡曲のような感のある一・二句で修飾されている

「夕顔」は、何を指しているのか。ただ眼前にある夕顔の花だとすれば「思いを馳せ」ることもないはずなので、やはりあの源氏物語の、悲劇的な「夕顔」なのでしょう。添削案を、A.「源氏」案、B.「眼前の夕顔」案の二案、示します。

 

 A.夕顔の君が顕ち来ぬ遣る水の愛あふるるかとまがふこの宵

 

 B.愛すれど愛あまりあり夕顔に思いをこめて水をやる宵

 

 いずれにしても結句の「夕」は、「ゆう」よりも「ゆうべ」と読まれる可能性が高く、そうすると非常にすわりの悪い字余りなので、「夕顔」と対比させた意図は酌みながらも、「宵」にした方が良いと考えます。もちろん「ゆう」と呼んでもすわりが悪いのは同じです。

 

 

     難逃れ虫の音色が心地よく深き眠りに沈む幸せ

 

何であるかはわかりませんが、何ごとかの難を逃れたあと、静まり返った夜に虫のなく

声音が心地よく感じられて、その中で深い眠りに落ちて行く「幸せ」を歌ったものですね。ちょうど台風19号が接近してくる10月12日にこの稿を書いていますので、あるいは「難」とは台風のことだったのかと感じました。

 ただ残念ながら、原歌を最初に読んだ時は、少々読みにくさが感じられ、歌意もすんなりとは受けとめることができませんでした。それはおそらく、初句が「難逃れ」、三句が「心地よく」といずれも連用形で止める形になっており(「連用中止法」などとも言います)、一首の焦点が定まっていないことから来るすわりの悪さによるのだと思われます。

 また、「難逃れ」は言葉として窮屈な感じがする上、漢字が連続している点も読みにくさにつながります。そこで六音の字余りにはなりますが、初句を「難を逃れ」とし、また「虫の音色」のあとを、係り結びを使って三句切れにまとめました。こうすることで、上句と下句をはっきり分けることができ、鑑賞した通りの時間の流れも、明確にすることができたと考えられます。

 

難を逃れ虫の音色ぞ心地よき深き眠りに沈む幸せ

 

 なお、初句を「難のがれ」とかな書きを交える次善の策もありますが、添削案の初句の六音は、それ自体が「時間」を含むため、文脈として「難を逃れた」一幕を表現できるものとなっているため、添削者としては(小田原担当)強く添削案の字余りの方を推すものです。

 

 

     猛暑日に立花の描かれし菓子食めば半年前の極寒懐ふ

 

  猛暑日に花橘の描かれし菓子食めば半年前の寒さを懐ふ

 

 はじめに「立花」の解釈ですこし迷いました。また結句の「懐ふ」の用字、表現は良いのですが、「極寒」にも一考の余地があります。単純な話ですが、「半年前、作者は極寒の地に 

いたのか」と思ってしまったからです。少し考えて、半年前の二月ごろがものすごく寒かったことを歌っているのだと思い直しましたが、こうしたことは、「読者の勘違い」でしかなく、作者の側の言葉選びの問題として、気に留めていただきたいところです。多人数の歌会などでは、「作者はアラスカにでもいたんでしょうか」などの発言が、すぐに出てきます(機会があったら、その種のリアクションの実例をご紹介しますね)。従って、すこし作者の意図からトーンダウンする形となりますが、添削案では「寒さ」としました。また「立花」も「花橘(かきつ)」とした方が、お菓子に書かれている図柄として余計な詮索をしなくてよいのではないかという理由で、そのように添削してあります。

 

  

2019.9.3       作者:水木果容

白球のカーンと響きホームラン歓声わたり甲子園燃ゆ

 

 主語・述語と言える組み合わせが三組あり(白球-響き、歓声-わたり、甲子園-燃ゆ)、忙しい感じになってしまっているのが惜しいです。また、「白球」のみが響くという表現にも、違和感を覚えます。とはいえ「カーン」という擬音語はこの一首の眼目でしょうから、これを生かすと、上句で主語を消し(「主語」はなくなるが「主体」すなわち読者の視点は打者に置き)、また四句を「甲子園」にかかる「歓声わきて」とすることで、はじめに述べた「忙しさ」が解消され、ストレートに読める一首になるでしょう。

 

白球をカーンと弾きホームラン歓声わきて甲子園燃ゆ

 

 

*暑けれど朝の木陰に風わたり肌にすずしさ運ぶ八月

 

 今年は梅雨明けが遅く、それまでは寒い夏かとも言われていましたが、一転梅雨が明けると、例年通りの猛暑となりました。朝から気温が高くても、朝の木陰に風が吹きわたる一瞬は、涼を感じる恵みのような感があります。そんな刹那の味わいをうまくすくいとった良い歌です。「八月」も、最初に述べた今年の夏の天候を思わせ、後年になっても「ああ、あの年はこうだった」と思い返すよすがになることでしょう。

 ただ一点、用字の問題として、漢字の重なりを避けるために「すずしさ」をかな書きにされたと思いますが、「暑さ」と「涼しさ」を漢字で対比させ、「はこぶ」の方をかな書きとしてみてはいかがでしょうか。

 

暑けれど朝の木陰に風わたり肌に涼しさはこぶ八月

 

 

同じ風邪をまた引きおり 除湿オンが冷えをよんだか 残暑の九月

 二句の字足らずと、「引きおり」の文語調に対する四句「よんだか」の口語調の混在は、改めたいところです。初句・二句は、合計十二音になってはいますが、短歌の基本として一音の字余りはほとんど気にならないのに対して(「同じ風邪を」と六音で読む)、字足らずはほとんどの場合許容されません(「また引きおり」の六音)。従ってこの作品では、初句は六音の字余りとして、二句は七音にする必要があるのです。

 

同じ風邪をまた引いており 除湿オンが冷えをよんだか 残暑の九月

 

 

同じ風邪をまた引きおりぬ 除湿オンの冷えを呼びしか 残暑の九月

 

 

 

 

2019.8.27                         作者:みずしらず

 はじめに、少々長くなりますが、短歌を書くにあたっての、「一首の独立性」と「連作」

または「群作」のことについて、お話しします。ご存知の通り、短歌は五句三十一音の短詩

形文学です。一首には三十一音のスペースしかありませんから、そのなかに盛り込める内容

(情報)は、限られたものになります。

 そのため作者の「書きたい思い」をあらわすために、古くから、一つのテーマあるいは題

材を、何首かの短歌作品につづけて(分けて)書く「連作」、または共通する主題のもとに

独立した一首一首を五首、十首とまとめて発表する「群作」というものが、存在しました。

 これはひと言で、いいとか悪いとか、決めつけられることではありません。しかし短歌を

書き、受け止めて批評する、ひろく言えば「歌壇」、もっと小さなフィールドでもこの「美

し言の葉」のような批評の場(あるいは歌会)の場で共通して求められることは、「一首の

作品が五句三十一音の短歌作品として完成している」ことです。

 

 長い前置きになりましたが、御作品に関してはそれぞれの作品に即して言及することと

させていただき、一首ごとの鑑賞、添削に入りましょう。

 

     あなたとのたった1つの約束は日曜九時の生存確認

 

最初に用字の点で申し上げると、横書きでも短歌作品では「一つ」と漢数字で表記して

下さるようお願いします。「美し言の葉」もWeb発表をしているため、心ならずも横書きにしておりますが、「美し言の葉」の基本的なスタンスは、縦書きの基本に即した表記を用いることとしております。

 さて、作品の内容は、なかなか魅力的です。前回も申し上げ、メールでも言及して下さった「恋の歌」であり、惜しむらくは、「歌謡曲的」な読後感のあることを、指摘せざるをえません。短歌の五句三十一音のリズムは、(場合によっては「標語」のように)「決まりすぎてしまう」「調子が整いすぎてしまううらみがあります。上句の「あなたとのたった一つの約束は」は、非常に訴求力のある、魅力的な言葉です。また、下句が全面的に悪いわけではなく、ただ「生存確認」という二拍ずつの調子のよい八音の結句が、すっと決まりすぎてしまうところに改善の余地があるのだと言えるでしょう。

 ただ、「生存確認」は、別の意味では省略を十二分に生かした、「恋人と、日曜の朝九時に、ただお互いの無事を確かめ合うことが、二人がつながっているただ一つの絆である」ことの表現であるとも受けとめられます。

 このような場合、どこかに「断絶」なり「屈折」、あるいは「遊び」を作ってやることで、歌は飛躍的に魅力を増し、「試作品」へと昇華します。

 

 ただ一つこころに〇〇〇日曜の朝九時に君の声を聞くこと

 

     時報鳴り九時が過ぎゆく静けさに涙溢るるパプロフの犬

 

この歌の「九時」はおそらく、一首目の「日曜九時の生存確認」と同じ場面を指すのだ

と思われます。「連作」として、「九時」という時刻に強い思い入れがあるのだな、と読者が感じるところまでが、「連作」の限界です。作品を並べてあるからと言って、「作者にとってきわめて重要な、あの日曜九時なのだ」と読者に受け取って欲しいというところまでは、短歌を書く上で求めてはいけないということを、まず申し上げておきます(そのような意図がまったくなかったら、当方の考えすぎですから、読み捨てて下さい)。連作・群作の他の作品とは切り離して、単独の一首として成り立つかどうかということが、短歌作品を書く上での基本であります。

 

 さて、作品そのものの中で気になるのは、結句の「パブロフの犬」です。誰もが知っていて、解説の要もないことですが、言葉というものはむずかしいものです。「パブロフの犬」とは、品詞で言えば名詞(固有名詞)ですが、「ランプが点灯するだけで犬がよだれを垂らすようになる、条件反射の状況」をも指すものであり、この歌のように「九時に声を聞けないと涙が溢れてしまう」という条件反射の様子が「パブロフの犬」という結句なのだと考えるとき、「涙溢るる」パブロフの犬と四句が結句を修飾している形には、かなり強く違和感を覚えます。小手先の対策としてなら、作品の中で「パブロフの犬」とかっこ書きするのも一つの手ですが、さらに抜本的な解決を望みたいところです。 

 

時報鳴り九時が過ぎゆく静けさに涙溢るる「パプロフの犬」

 

パブロフの犬かと思ふ時報鳴り九時過ぎゆけば涙の溢る

 

  パブロフの犬かと思ふ時報鳴り九時過ぎゆけば涙あふるる

 

 二案目、三案目ですが、本来文法上は終止形「溢る」とするべきで、二案の通りです。ただ100%文法の決まりに従うばかりでなく、多少ずらしたり、決まりを超えて挑戦してみることは許容されるもので、「あふるる」という語感を生かして連体形でおさめることも、あって良いでしょう。この際「あふるる」とかな書きにした方が、より情感が表現できると考えています。

 なお、文法の枠を超えて挑戦するということは、「そうでなければならない」または「その方がずっといい」という、作者にとっての必然が「読者に認められる」場合にのみ許容されるものとお考え下さい。

 

 

     くれなゐに吾を重ね見ゆ竜田川恋のいろはを覚えし彼の日

 

この歌も、助詞と動詞の関係をはじめに指摘します。「吾を」のままにするなら動詞は

「重ね見る」とするべきで、「重ね見ゆ」を生かしたいなら「吾」のあとの助詞を「の」にする必要があります(吾の重ね見ゆ)。

 理由は、「見ゆ」は口語なら「見える」という自動詞で、目的語をとらないからです。重要なところですから、例を挙げます。

 

 家 が 建つ  自動詞 家が「自然に」建つ意をあらわします。

 家 を 建てる 他動詞 目的語である「家」を「建てる」。これが他動詞です。

 

 「重ね見ゆ」は、「重なって見える」のですから、「吾が」重なって見える、という文脈でなければいけません。ですから「重ね見ゆ」を生かすためには、「が」と置き換えることができる「の」を用います。

 

くれなゐに吾の重ね見ゆ竜田川恋のいろはを覚えし彼の日

 

 しかしこの作品は、作者が「自分を重ねて見る」意が強いように思われますから、「重ね見る」の添削の方が、より適切なのではないでしょうか。

 

 

              くれなゐに吾を重ね見る竜田川恋のいろはを覚えし彼の日

 

 

 

 

2019.8.4      作者:あ~すけ          

JAFを待つ間いろいろ思うことたまの休日遠出の帰り

 

 一連、休日に車で外出なさって、故障のためにJAFを呼んで振り回された際の思いを詠んだものですね。みな大きな疵(きず)はなく、率直に言わせていただけば、ある水準までの投稿歌壇などで評価されるところの技量は、十分満たしていると考えられます。

 しかし、佐東様と「美し言の葉」の批評・添削の関係は、さらに上を目指すところを目指してきたと、私は自負しておりますから、その前提で、これまで指摘させていただいたことをもふまえながら、進めさせていただきます。

 

 一首目のこの歌は、「散文的」な「詩の思い」としては、良い味わいを持っていると思います。しかし、かつて批評の場で申し上げた、「五・七・五・七・七」のリズムにはまりすぎて、調子が良すぎるといううらみがあるとも思われます。また、三句切れの結びと結句の結びがともに体言(名詞)であることから、フォークソング以降の歌謡調の雰囲気を感じる読者も多いのではないでしょうか(私=小田原自身、すこし違う角度においてですが、「歌謡曲的」という指摘を若い頃は頻繁に受けました)。

 この点については、三句と結句、いずれかを動詞(+助動詞)にすることだけで解決できます。

 

JAFを待つ間いろいろ思いたりたまの休日遠出の帰り

 

JAFを待つ間いろいろ思うことたまの休日遠出したれど

 

 さらに一歩進めると、上句の間の持たせ方を再考し、「遠出」が「休日」を想起させうることから、次のような手法が考えられます。

 

わき起こる思いこもごも反芻すJAFを待ちいる遠出の帰り

 

 

・エンジンの音が変だと出発の直後に君が言っていたのに

 

 この歌も、一首がひとつの感興のみで終始しているので、ある種のつぶやきか、歌謡のワンフレーズのような印象になっているのが惜しいところです。ですから途中で一度切って、屈折を持たせたいと思います。

 

聞き流した自分を悔やむあの時の「音が変だ」の君の言葉を

 

 

・マイカーは荷台に我は助手席に100キロ先へ搬送の旅

 

 JAFの救援でマイカーが100キロも遠いところへ運ばれていくという、その事実に対する驚きに、読者をひきつける強さがあります。蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」の語調をふまえて、このまま添削なしでも生きる歌だと考えます。

 

 一歩踏み込むなら、蕪村の句は「菜の花や」の切れ字と、それによる俳句ならではの構成が秀句の地位を勝ち得ているので、短歌としての意匠を組み込むことでしょう。

 

 100キロを牽かれゆくなり荷台なる愛車とぽつり助手席の我(わ)と

 

 

 

2019.7.23                         作者:水木果容

はやぶさ二 岩石採取の画像来い 息子の努力そこに実りて

 

前回も書きましたが、ご子息様はすばらしいお仕事をなさっているのですね。ところで、やはり前回、「薔薇が12本」という御作の添削の際、短歌は横書きでも文学であるから、漢数字にしたほうがよいと、アドバイスさせていただいたかと思います。しかし、「はやぶさ2」は固有名詞ですから、こういう場合は算用数字の「2」がよろしいかと存じます。二句以降は、ご子息様のお仕事を祈るような、はやる気持ちで見守っている作者の心情が良く表れていると思います。口語と文語の混在は、いまの歌壇では容認されるようになって、ずいぶん日がたちます。ですが、この御作は文語でまとめたほうがよいと、小田原が判断致しました。その結果の添削案は次の一首です。

 

はやぶさ2 岩石採取の画像来よ 息子の努力そこに実らん

 

いかがでしょうか?ご検討下さい。

 

 

*突然に再就職のオファーあり死者と生者の連携実る

 

 歌意はよくわかります。「死者」と「生者」の具体はわからぬものの、「生者」のための「死者」のフォローが実を結んで、「再就職のオファー」となったことを、「連携実る」とされたのでしょう。三句切れの止め方、下句の省略と言い切りも、ひとまず成功していると言っていいでしょう。

 ただ、短歌の五・七・五・七・七は、調子よく決まりすぎると、逆に詩作品としての味わいがうすれる場合があります。原歌の場合も、ピシッと決まっていると高評価を受ける場合もあれば、わずかに「遊び」を持たせた方が良い、と評されることもあるでしょう。

 

突然に再就職のオファーあり死者のトスにて生者がおどる

 

 「トス」や「おどる」などの言葉は、この限りではありません。しかしこうすることで、上句は事実を端的に叙述し、下句に動きを盛ることで「死者」の働きをより鮮明なものにすることができるはずです。一つの方向性として、参考になさって下さい。また短歌を書く場合の常道ですが、「死者」と「生者」の具体は伏せたままにして作品を成り立たせる、その意味では原歌も十分成功していると考えます。

 

 

つゆ時の晴れ間に光るアガパンサス放射状にて小花輝く

 

みずみずしい情景描写だと思います。アガパンサスという花を知らなかったので、ネットで調べたところ、確かに放射状に咲く花なのですね。直すところは一か所だけです。二句の「光る」と、結句の「輝く」がほぼ同じ意味を指し、重なってしまうところです。そこで、

 

つゆ時の晴れ間を彩るアガパンサス放射状にて小花輝く

 

としてみました。梅雨の雨をまとったアガパンサスが、まだ濡れているのでしょうか、小花が放射状に開き、きらきらと輝く。とても良い歌材の選択だと思います。

 

 

 

 

 

   

2019.6.26                   作者:みずしらず

     人類が初めて月に着陸す偉大な年に我は生まれり

 

人類が初めて月に着陸した年に生まれた。誇らしいお気持ちがよく伝わってきます。

とても素直な詠みぶりです。ただ、「月に着陸す」という表現は、ややありきたりに感じます。もう少しひねってみましょう。「月に一歩を刻むとう」としてみました。「とう」は古語で、「という」を意味します。歴史的仮名遣いでは「とふ」です。また、下句は、作者がこの年にお生まれになった誇りや感激をより強調するために、「生(あ)れし我なり」としてみました。「我」が強調されている感じがすると思います。いかがでしょうか?

 

人類が月に一歩を刻むとう偉大な年に生(あ)れし我なり

 

なお、原歌の結句「生まれり」は、文法上、不備があります。「り」は存続・完了の助動詞なのですが、これに接続するのは四段活用動詞の未然形とサ行変格活用動詞の已然形だけとなっており、他の動詞にはすべて存続・完了の「たり」が接続するという決まりです(四段およびサ変は「たり」につづく場合もありうる)。従ってその意味でも、添削案の「生れし我なり」の形とするのが良いでしょう。

 

 

      時は流れ 訪問するは叶わずが購入できるを知りて驚く

 

時流れ訪(おとな)うことは能はずも贖(あがな)ひうると知れるさびしさ

 

時流れ訪(おとな)うことは能はずも贖(あがな)ひうると知りて慄(をのの)く

 

 まず文法上の面から添削・解説を致します。逆接をあらわす接続助詞の「が」が登場したのはあまり古い時代ではなく、文語では「ありえない」というほどではないのですが、「叶わずが」という使い方には疑問符がつきます。ここをどうしても「が」にする場合は、「叶わず」の「ず」を連体形にして「ぬ」にすれば(「叶わぬが」となります)、口語的になる意味も含めて、問題はないでしょう。ただ、全体的に(今回の「月の土地所有」をうたった三首)文語脈ですから、「叶わず」のあとに平安時代から逆接の接続詞である「も」をつけて、「叶わずも」としたのが添削案です。

 

また、「時は流れ」と六音の初句に一字アケを用いた原歌の案は良しとしますが、「能はずも」「贖ひうる」(仮名遣いも三首目の「さへ」を根拠として旧かなに統一しました)と改めた流れから、「時流れ」の五音で一字アケを使わずに、すらりとつづく形にしました。

 

さて、「月の土地購入」のことを検索してみましたが、たしかにそのことは、地球上の(米ソおよび国連まで?)法律や決まりの上では、通った話みたいですね。購入した(?)人たちの口コミも、「夢」のとなりにあるような感覚で、とらえているように思えました。ただ、いずれ現在とはまったく異なる条件、環境となった時に(むかし想像されていたように、月旅行ができたり、月に家を建てたりといった状況になった時に)、果たしてどれだけ有効な「権利」なのでしょうか。私(小田原)などはそのことが気になりました。

 

 

     どれ程が私有になりしか満月よ 道長さへも手に及ばずを

 

月の「私有」が「夢」の領域に近いものとして内容をとらえた時に、「望月の欠けたることもなしと思へば」とうたったらしい道長が登場する歌想は、楽しいと思います。ただ「手に及ばず」という表現はどうでしょうか。力が及ばない、手が届かないということは、その主体(道長)が対象(月)を手に入れたい、力を及ぼしたいと考えていたというイメージを、言葉として持ってしまいます。そこで読者には、やはり疑問、違和感が生じると思われます。

また文法上、適切なのは「及ばざりしを」でしょうね。これで添削案をひとつ、お示しします。

 

 どれ程が私有となれるか満月よ 道長とても及ばざりしを

 

 ただ私(小田原)は、三首目の前に述べた疑問の方を強く思ってしまうので、「権利」自体への疑問を盛り込んだ次の案を、はじめに考えました。ただ水谷様の創意とは異なる内容になってしまうので、添削ではなく、方向性の一案としてご覧下さい。

 

 

道長もながめしのみのつくよみよだれが得たるか何の権利で

 

 

 

 

 

 

2019.6.14                        作者:水木果容

*花水木ふさふさの葉の青空の抱きひらきてわれ見守らむ 

 

 一読して、すんなりとは咀嚼できない、言葉のバランスの問題が気になりました。読み解いてみると、「花水木のふさふさの葉を青空が抱くようで、花水木の葉(または花)がひらくのをわれは見守ろう」となるかと思います。いちばん悩んだのは「青空の抱きひらきて」の部分です。ここは「青空」の抱くのが何なのか、「ひらきて」は何がひらくのか、悩みどころです。言えることは、歌会などでよく指摘される「盛り込みすぎ」の状態になっているのだと思います。具体的には、「花水木」「ふさふさの葉」「青空」「抱き」「ひらきて」「われ」「見守らむ」、これだけの歌材をいっぺんに一首に盛り込むのは少々無理があると言わざるを得ません。そこで植木を剪定するように、この御作をバッサリと削ってみました。

 

ふさふさの花水木の葉あおぞらが抱くようなる様を見守る

 

まず、短歌では「われ」という言葉は必要最低限の用い方で良いと思います。この御作では、「われ」と言わなくても「われ」が思ったということは分かるので、こういう場合はできるだけ「われ」を使わずに一首が成らないか、作歌の際に検証してみましょう。また、もしかしたら、「ひらく」(葉であれ花であれ)が、作者が最もおっしゃりたかったことなのかもしれませんが、ここは「葉」と断定して、一首を整えてみました。ご一考下さい。

 

 

返品を繰り返すなりぴったりのパンツをはいて眺めつ

 

 女性ならよく分かる御作ですね。インターネットショッピングで着るものを買い、届いて着てみたが、どうも気に入らない。ぴったりの張り付くような(?)パンツを鏡に映して眺めるが、気に入らないで返品を繰り返す。現代の宅配事情までほの見える、良い歌材だと思います。

 問題は結句の字足らずです。結句は七音でないとならないのですが、四音で終わっています。そこで結句を「つど眺めおり」としました。「つど」は「その都度」の「つど」です。「おり」(歴史的仮名遣いでは、をり)は動作の進行、継続を表す補助動詞です。パンツが届くたびに眺めている感じが表現できているかと思います。

 

 返品を繰り返すなりぴったりのパンツをはいてつど眺めおり

 

 

*12本住まいの中にバラありて深紅のビロード纏うがごとし

 

この御作は添削するところがあまりありません。お住いの中に(もしくはお庭でしょうか)十二本のバラがあって、深紅のビロードを纏うようだ、と、美しく視覚に訴える作品だと思います。一点気になるのは、「12本」の表記です。メールやワードで横書きしているとやってしまいがちなのですが、やはり短歌も文学ですから、漢数字の「十二」としたいところです。それ以外は良いと思います。

 

十二本住まいの中にバラありて深紅のビロード纏うがごとし

 

 

2019.5.16                           作者:みずしらず

     役員を決めるあみだに導かれ隣近所の人なりを知る

 

町内会か何かの役員を決めるために顔を合わせ、あみだくじで決めていく、その過程

で、普段はあまり知らない隣近所の人たちの人柄を知る、という歌想も、「あみだに導かれ」という意匠も、なかなか面白いものがあります。ただ、人柄や人間性、その人がどういう人かをあらわす言葉は「人となり」であって、これを動かすことはできません。また、歌の骨格を変えないためにも、結句を「知る人となり」とする方向で、添削をしてみたいと思います。ただ、「あみだに導かれ」を生かすためには二句・三句と結句を固定するため、「隣近所」の役員であることは、割愛することになりそうです。あみだで決めることから、町内会かPTAか、いずれにしても会社役員など他の「役員」と混同して読む読者はいないでしょう。

 

役員を決めるあみだに導かれ徐々にはつかに知る人となり

 

 ただこの場合、成語の「人となり」を誤読される可能性もあるため、もう一案、考えておきたいと思います。

 

ご近所の人となりをぞ暴き出す役員えらびのあみだの妙か

 

 

     お昼寝の後ろめたさを解放すシエスタなるが口癖となり

 

とてもよく分かる御作です。たとえば真面目な主婦が、旦那さんが働いているのに昼寝したことを後ろめたく思う・・・。その、なんだか可愛らしいうしろめたさが、「シエスタ」という、南ヨーロッパで昼食のあとの昼寝をさす言葉、これはずいぶん前から日本に根付いた言葉ですね・・・。それに出会ったことで、解放され、「シエスタだから」と、大手を振って眠れるようになった。ちょっとクスッっとしてしまう作品ですね。

添削に入りますと、「お昼寝」という言葉は、とくに接頭語の「お」が、幼さを感じさせているように思います。それを「お昼寝」と鉤括弧で括ることで、独立した力を持ちます。三句めに持ってくることで、さらに印象が変わります。だいぶ原歌からくずした形ですが、こういう添削例もあることを知っていただければ、と思います。「呉る」は文語の終止形を用いましたが、「くれる」の文語です。かな書きで「くる」としたのでは、「来る」と誤読されるため、あえて使いました。

 

シエスタの言ぞあっぱれ「お昼寝」のうしろめたさを解き放ち呉る

 

 

     白い息にいつしか春が訪れて熱い吐息で愛をささやく

 

 情熱を感じさせる御作です。白い息となる冬が移ろい、春がやってきて、「熱い吐息」になるのは、その先の夏でしょうか、初夏でしょうか。

 添削に入ります。上句はとてもいいです。「白い息にいつしか春が訪れて」は、秀逸な表現だと思います。問題は下句です。「熱い吐息で愛をささやく」。既視感を感じるのは私だけでしょうか?ここでは、よく言われる常套句の域を出ておらず、短歌としての工夫があまり感じられません。もっと言ってしまえば、歌謡曲の一節のような既視感を覚えるのです。「白い息」と「熱い吐息」の対比が興味深いゆえに、残念です。そこで考えたのが次の二案です。

 

白い息にいつしか春が訪れて熱い吐息の愛ぞあふるる

 

白い息にいつしか春が訪れて熱い吐息の愛に変わりぬ

 

一例めの「愛ぞあふるる」は、「ぞ」の係り結びなので、「あふるる」と連体形でおさめました。二例目の方が「息」に焦点が行っていて、よろしいように思うのですが、「白い息に」の「に」と、「愛に」の「に」、助詞が一首のなかで重なるので、万全ではありません。

 

 きびしい指摘をさせていただきましたが、歌想は大変良いのです。添削でめげることなく、これからも、どんどん大胆に歌を詠んで下さい。

2019.5.13                        作者:水木果容

*半世紀越えてぞ君と再会すフェイスブックで季節の花木

 

 この御作は、まず「フェイスブック」という媒体を知っている人にのみ、理解できるものだと思います。先走りますが、三首目の「ブラーバ」「ルンバ」も、持っている、もしくは知っている人でないと、何のことだか分からないでしょう。しかし、だからといって「フェイスブック」「ブラーバ」「ルンバ」の説明を三十一文字の短歌でするのは無理ですし、それでは散文になってしまいます。では、どうすればいいか。一首目なら「フェイスブック」と言わないで、同じ感動を詩に昇華させるべく、言葉の斡旋をする、と言うことでしょう。

 最初にこのようにお断りしましたが、このことは作者のお心に留めておいていただいて、添削は原歌に基づいて行いたいと思います。

 さて、私どもが作者とお友達になっていただいているように、フェイスブックのことはよく知っています。この御作の解釈は、小田原と石井で分かれました。小田原は、

 「五十年ぶりにフェイスブックという媒体を通じて、君の育てている、もしくはゆかりの季節の花木に再会できた。」

石井は、

 「フェイスブックの季節の花木のプロフィール写真で、五十年ぶりに君と再会できた。」

と、それぞれ解釈致しました。

 それでは、批評と添削に入ります。まず、係助詞「ぞ」ですが、これを用いると、「再会する」と連体形で受けなければおかしいです。ですが、字余りになりますし、「再会す」が現在形ですので、下記のように改めました。また、主に石井の解釈によりますが、「季節の花木」ではわかりづらいので、「フェイスブックの花の写真の」と、「写真」という言葉を入れ、倒置法に致しました。いかがでしょうか?

 

半世紀越えきて君とまた会いぬフェイスブックの花の写真の

 

 

*「めざそうや平均寿命」息子言う72歳の我アワワアワ

 

 愉快な御作ですね。「平均寿命を目指そう」というご子息様、お優しいと思います。添削に入りますと、「 ~平均寿命」と」と、字余りにはなりますが、助詞の「と」は絶対に入れるべきだと思います。助詞がないと、舌足らずな感じを受けてしまいます。また、「72歳」は、誤りではないのですが、短歌では「七十二歳」と漢数字にした方がいいと思います。そして結句も助詞の問題になりますが、「我はアワアワ」とすることをお勧めします。もちろん「アワワアワ」は面白いオノマトペではありますが、やはり助詞はきちんと入れたほうがいいと思います。 

 

「めざそうや平均寿命」と息子言う七十二歳の我はアワアワ

 

 

コトコトと戸に当たりしか ブラ―バの床すべりおりルンバの後に

 

「戸にあたりしか」の二句切れから入っていますが、ここにまず一つ疑問があります。「しか」は①過去の助動詞「き」の已然形「しか」の場合と、②過去の助動詞「き」の連体形「し」に、疑問の係助詞または詠嘆の終助詞「か」がつづいている場合と、二通り(三通り)考えられ、それによって歌意もわずかに異なるからです。

     の場合は、「コト、コトと、何かがつづけて戸に当たる音がした。ルンバの後に、ブラ

ーバがつづけてすべってきて、当たったのだな」となりますし、②であれば、前半部が、「・・・当たる音がしたみたいだが、ルンバとブラーバがつづけて当たったのかな?」となって、確信か疑問か、という違いが生まれます。

 ただ、①の過去の助動詞の已然形「しか」とするには、前に已然形の結びをもとめる係助詞「こそ」を置く必要がありますから、解釈としては②を採るのが常道です。

 さて、以上を踏まえた上で添削に入ります。先ほどからご説明している問題を解決するために、「コトコトと戸の音したり」と、完了・存続の助動詞「たり」で収めるやり方があります。また、「ルンバに続いてブラーバが床をすべっている」だけでは、ブラーバとルンバの動きの面白さが、いまひとつ表現できていないように思います。ですから、結句で「追いて馳せ来し」とすることで、人間味が感じられる動作を表現し、「詩」を形成します。

 添削例二首目は、もっとシンプルに、前述の説明②を採択し、原歌に沿ってみたものです。「すべりおり」の「おり」は、動作の進行、継続の意を表す補助動詞で、「~している」の意です。いまブラーバがすべりおりたなら、「おり」はうまく機能しません。ですから、その懸案を解決するために「すべりきて」としたものです。

 

コトコトと戸の音したり ブラーバがルンバのあとを追いて馳せ来し

 

 

コトコトと戸に当たりしか ブラ―バの床すべりきてルンバの後に

2019.4.12                       作者:佐東阿亜介

(梗塞の血栓は白く光って映っていました。)

・MRIの画像に君臨す脳梗塞の楔まばゆし

 

 脳梗塞で入院なさったと伺いましたが、その後お加減はいかがでしょうか。MRIの画像に梗塞の跡(血栓)がくっきり映っていたという、衝撃的な作品です。ただ惜しむらくは、「君臨す」と「まばゆし」が同じ主体(血栓)の述語となっているところでしょう。結句「まばゆし」でその様子を強く訴えるためには、途中で句切れをはさまずに一首を読み通す必要がありますが、「まばゆ」き「脳梗塞の楔」が「君臨す」と三句切れになっているので、焦点が二か所に分かれてしまっている印象があります。まず、「君臨する」と連体形にすることで、字余りではありますが「まばゆし」を生かす形にすることは可能です。次の通りです。

 

MRIの画像に君臨する脳梗塞の楔まばゆし

 

  また、「君臨」を弱めて、客観的描写にすることで、「まばゆし」を生かすための一案です。

 

MRIの画像をつらぬける脳梗塞の楔まばゆし

 

 そして、「君臨す」を生かすためには、このような手法が考えられます。

 

MRIの画像に君臨す脳梗塞の楔ましろく

 

 

病室の起床時刻はまだ遠く尿導管の違和感続く

(眠りは浅く尿道カテーテルが気になって時間を永く感じました。)

 

 私も昔(三十年以上前です)、三十九日間と二十六日間の入院をしたことがあります。一度目は術後、比較的重篤な状態でしたから、尿管(尿道カテーテル)は「気が付いたらついていた」状態で、それが外された時には、「あったはずのものがなくなった」感覚が少し、ありました(余談です)。二度目のやや軽い入院の時は、「あ、やはりこれか」と思ったものの、前の時の慣れ、というよりもなじみがあるほどの感覚でしたが、その時に、それが取れた際には、やはりそれまでどうしようもない違和感があったのだということに、はじめて気がつきました。

 そして、病院の夜は消灯時間が早く(眠れず)、朝は意外と遅く、目の覚めた患者にとっては諸事動き出すまでがいかにも遠い、所在ない時間となりますよね。そんな時間に尿導管の違和感が続くとされたこの歌は、よくできていると思います。このまま添削なしでも可とすべきところですが、いま一つ、歌にふくらみを持たせるために、添削案を考えてみました。

 

 病室の起床時刻はまだ遠く尿導管がわれを喰ひをり

 

 結句「喰ひをり」は、作者の「違和感」とは異なるかもしれませんが、異物が体内に侵食している、ある位置を否応なく占めている感覚を、「喰いついてきている」ニュアンスで表現してみました。

 

 

・リハビリの平行棒をこわごわと握り踏み出す麻痺の右脚

 

 リハビリは平行棒ではじめるのですね。その様子が明確に伝わり、一首の作品としてよくまとまっています。

 ただこれも、主体と述語(主語・述語)の関係なのですが、このままの文脈では、平行棒を「こわごわと握り踏み出す」主体は作者自身のはずなのに、それが「麻痺の右脚」であることになっています。歌会などでの口さがない評者なら、「右脚が握るみたいに読める」と言うかも知れません(作者ご自身のその時のお気持ちを思い、自分が同じ立場にあるところまで感情移入してみると、そうではないこともよくわかるのですが)。

 

 こわごわと平行棒を握りつつそっと踏み出す麻痺の右脚

 

 こわごわと平行棒を握りつつ麻痺したる脚をそっと踏み出す

 

 作品を発表する時は、それと同時に作品が自身の手をはなれ、書かれてある作品として批評にさらされることを覚悟する必要があります。添削案1では、「リハビリ」を割愛して、結句をそのまま生かしました。また添削案2では「リハビリ」を生かすために、「右脚」の「右」だけを割愛しました。四句は字余りになりますが、はじめに指摘した主語・述語の問題を解決するためには助詞の「を」が必要で、そのための字余りはまったく問題になりません。

 

 取捨選択、推敲の際のご参考になれば幸いです。

2019.4.11                           作者:みずしらず

     元号の発表前に騒ぎ出す我が血の中のナショナリズムよ

 

元号の発表前にざわざわとした気持ちになるご自分のことを、「騒ぎ出す我が血の中のナショナリズム」としたところは秀逸だと思います。しかし、「ナショナリズムが騒ぎ出す」と言う表現は、すこし違和感を覚えます。「騒立つ(さわだつ)」という言葉はいかがでしょうか?また、「騒立てり」と、完了、存続の助動詞「り」を用いることで、上句でいったん切れ、リズムが生まれます。それから、「我が」という言葉をどこへ持ってくるか、ですが、「わがナショナリズム」とすることで、自分の中のナショナリズムが強調され、より効果的なのではと思いました。また、「我が血」とした場合、「我が~」という言い方は、自分の体の中の「血」を修飾しますが、自分にまつわることには、あまり「我が」という言葉を使わない方がいい、ということは、歌会の批評などでよく言われることです。言わなくても分かる場合が多いからです。ですから、「わがナショナリズム」とさせていただきました。前後の関係から、「わが」と平仮名表記に致しました。結句は「は」で収めることで倒置法となり、一首が落着するように思います。

 

元号の発表前に騒立てり血の中のわがナショナリズムは

 

  なお、十分ご存知のこととは思いますが、「ナショナリズム」という言葉は、すこし過激なニュアンスを持つ言葉でもあります。かんたんに言って「自国を愛する心、もしくは血」というのが原歌の意図するところと思いますが、日本語への訳し方によっては、「国粋主義」というとらえ方もありうるので(この場合、自国だけがもっともすぐれていて、他の国、他の文化は一切認めない、という意味を持ちます)、私ども「美し言の葉」としてその用語の是非を云々するのではなく、作者ご自身の「言葉の使い方」として、気をつけるリストに含めておいた方が良いと考え、指摘しておく次第です。もちろん、昨今の言葉のありようから考えて、「愛国心」よりは良いと思われてのご選択であろうかとも、考慮しましたが。

 

 

     真夜中の高速バスは客人を夢の国へと運んで行きぬ

 

  「夢の国」という表現が眠りの国、またディズニーランドにも掛けた、とおっしゃる手法は興味深いと思います。ただ、脚注なしで一読した場合、ディズニーランドまで想起する読者はあまりいないように思います。

そして気になるところが二点あります。一つは「客人」です。「きゃくじん」と読ませる意図で書かれたのか、「まろうど」なのか。「きゃくじん」であれば、「きゃくじん」とは自分の所へ来るお客さんのことを表現する言葉であり、すこし意味を外しています。歌のイメージとしては、バスが多くの乗客を乗せて、「夢の国」へと運んでいく姿を見ているように受け取れますので(遠来のお客を連れて一緒に乗っていた、とするなら、添削2案目の文脈が必要になります)。「まろうど」も、辞典に同様の意味も載っていますが、そもそも「まれに来る人=まれびと=まらうど(まろうど)」であり、場合によっては時空を超えてあらわれた希有なる人とされる場合もあるほどですから、この歌にぴったり合うのではないでしょうか。そして、その意を明確にするために、「まろうど」とかな書きにします。

また結句の「運んで行きぬ」も、「運んで行った」という意味ですから誤りではありませんが、バスの動きが完結してしまうため、どこか本当の、未知の国まで行ってしまったような感じを受けます。ここは完了・存続の「り」を用いることで、「運んで行っている(継続)」とすれば、バスを見送っているとしても、赤い尾灯が作者の目に残っていることをあらわすようになります。以上の観点から添削案を2案、お示しします。

 

真夜中の高速バスはまろうどを夢の国へと運んで行けり

 

   真夜中の高速バスはまろうどを夢の国へと運び行くなり

 

 

     友からの便りが途絶え三度の春 時代もついに変わっていきぬ

 

  ご友人と連絡がとれなくなり心配するお気持ち、良く伝わってきます。ただ三句の「三度の春」の字余りは解決したいところですね。そこで「春みたび」としました。下句の「時代もついに変わっていきぬ」ですが、平成から令和に代わったことを詠われているのだと思います。「ついに」は完結の言葉に繋がりますが、「変わってい」くという言葉とは、すこしそぐわない気がします。もちろん、完了の助動詞「ぬ」があるので、絶対におかしい、という訳ではありませんが。もろもろ考え、「時代の代わる日を迎えつつ」と致しました。「かわる」は、時代が交代する意味で、「代わる」の字を充てました。

 

友からの便りが途絶え春みたび 時代の代わる日を迎えつつ

 

  さて、ここでもう一つ、上句と下句とのバランス、もっと言えば「強さ」と「弱さ」ということを考えてみたいと思います。原歌では、親しかったお友達からの、年賀状でしょうか、便りが絶えて三度目の春を迎え、「時代」も「平成」から「令和」へ代わったことを歌っておられます。この段階では、「三度の春」の方に重きが置かれていますが、「時代」が変わる方は、やや弱く、言葉は悪いですが付け足しのようにとらえる読者もいることでしょう。

 添削案は、「時代の代わる日を迎えつつ」とすることで、時代の動きの方にも焦点を付け加えましたが、「つつ」で止めることから、やはり焦点の当てにくさが残ります。

 そこで、前半の「友の音信不通(すみません)」と「今までの世」の方に焦点を置く形にはなりますが、一首の作品として焦点を明確にするために、もう一案の添削をしてみました。「にれかむ」は「反芻する」の意であり、「齝む」などの漢字があります。

 

 

友からの便りが途絶え春みたび 平成の世を重くにれかむ

 

 

 

 

 ②は夢の国の意味に、眠りとディズニーランドの2つの意味を持たせてみました。

 

③は遠方に住む学生時代の親友からの連絡が途絶えこの3年途方にくれています。共通の友人誰もが同じ時から連絡が途絶えたと言っていて不吉な予感と、それを確かめることが出来ないわけではないのですが・・・親友からひょっこり連絡が来るのではと毎日淡い期待を抱いてしまうのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019.4.11                        作者:水木果容

★アネモネの茎ふせたりし蕾なん空に向かいて花びらひらり

 

 短歌作品は、五句三十一音の定型の中に、作者が読者に手渡したい「感動」を盛り込むことがその命と言えます。そして「感動」を読者に読みとってもらうためには、作品の意図するところを正しく受け止めてもらうこと、すなわち作品を送り出す側にも、「この歌の内容はこのように受け止めて欲しい」というところを過不足なく表現する努力が求められます。

 この作品の意図するところは、「すこし前まで茎を伏せるようにしてついていた蕾だったが、今は空に向かって花びらがひらいている」ということかと拝察しました。その前提で批評、添削をさせていただきます。

 率直に申し上げますと、原歌に用いられている古語の「文法」のままでは、解釈案のように読みとれる読者は少ないのではないかと思います。第一の問題は三句の係助詞「なん」にあります。「なむ(なん)」には、①強意の助動詞「ぬ」の未然形+推量または意志の助動詞「む」、②他への願望をあらわす終助詞「なむ」(あつらえの「なむ」)、③係り結びをとる係助詞「なむ」(強意をあらわす)がありますが(ほかにこの種の「問題」ではナ変動詞の未然形活用語尾+推量・意志の「む」)、体言(「蕾」)に直接つくのは③の係助詞のみです。

 そして、ちょっと前まで茎を伏せるようだった、という時勢もしくは時間の経緯をあらわすのに、二句の「ふせたりし」だけでは無理があり、たとえば「なん」の部分が過去推量の「けむ」などを用いた表現であるならば、そのように読むこともできますが(ただし「けむ」も用言のみに接続します)、一首の「現在」がどのような状況なのか(アネモネがいまどういう状態なのか)が、読みとりにくくなってしまっているのです。

また結句の「ひらり」も、おそらく咲いている状況なのだろうと解釈しましたが、語感としては「ひらり」には「散る」方のイメージが、強くあるのではないでしょうか。

つまるところ、短歌といえども読者に内容を読みとらせる「文脈」の整理は必要で、そこを整えた上で、表現の挑戦をすると良い、ということを、申し上げたいと思います。

 以上の解釈・批評を前提として、添削案をお示しします。

 

アネモネの花びらひらり天に向く蕾重りて伏してありしが

 

 

Kindleのアプリスマホにインストール老眼鏡無しにルンルン

 

 替わって石井です。老眼鏡なしにKindleのアプリをインストールできた。弾むお気持ちが伝わってきます。上句は「アプリを」と、助詞の「を」を添えたほうが、八音の字余りにはなりますが、丁寧で読者にも優しいと思います。「インストール」も字余りですが、長音も入っていますし、単語なので、このままでいきましょう。問題は結句です。「ルンルン」というオノマトペを短歌で使ってはいけない、という決まりはありません。ですが、あまりにも流布している表現ですし、短歌も韻文ですから、あまり口語に近い言葉選びはお勧めできません。また、四句めの「老眼鏡」も六音で字足らずです。ですから、下句を「老眼鏡の」と、助詞の「の」を補いつつ、「要らぬわれかも」と言い切ります。なお、「かも」は詠嘆の終助詞です。

 

 Kindleのアプリをスマホにインストール老眼鏡の要らぬわれかも

 

 

★朝散歩青空抜けてわれありと白木蓮に弾みつくなり

 

 とても良い歌想だと思います。青空の「青」と白木蓮の「白」の対比が鮮やかです。添削に入りますと、「朝散歩」は少し無理があるように思います。前後しますが、添削例の結句を「足どり弾む」にすることによって、歩いている、もしくは散歩していることが伝わると思いますので、「散歩」という言葉は割愛いたしました。また、「朝散歩」「青空抜けて」「われありと」がバラバラで、それぞれが結び付きにくい印象を覚えます。そこで下記の添削のように、すこし整理してみました。原歌のままだと、「白木蓮が弾みつく」ように読めてしまうからです。「われあり」と堂々と見事に咲く白木蓮に出会って、散歩の足取りの弾みがつく、と言うのが作者が仰りたい歌意なのでは、と判断しての添削例です。

 

青空の抜ける朝なりわれありと咲く白木蓮足どり弾む

 

 ひとつ申し上げますと、短歌は「引き算」の文学です。いろいろと表現したいことがある中で、推敲していくうちに「この言葉はなくてもいいか?」と気づき、削っていく。あるいは、三十一文字のなかに収めるのに、なにを引けばいいかを考える。また、同じことを表現するのに、別の、音数が少ない(または多い)言葉はないか、と思いを巡らせる。それが短歌を詠む上での大前提です。あれもこれも言おうとすると、短歌で言うところの「盛り込みすぎ」になってしまうことがありますので。

 

 作者は、こういったことはもうご承知かと思います。ただ、三首目がやや盛り込みすぎになっているので、あえて記しました。参考にしていただければと思います。

 

 

 

 

 

2019.2.21                         作者:みずしらず

     「ちゅるちゅる」を毎日ねだりし幼子は 「炭水化物は抜くの」と澄ます

 

上の句と下の句での時の流れは伝わるでしょうか。一ます空ける可否もお伺いしたいです。

 

 小さかったお嬢様が、年頃になって容姿や体重などを気にしだし、流行りの「炭水化物抜き」をするようになった・・・。よい歌想だと思います。

 ただ、一字アケ(一ます空け)を含め、この文脈で時の流れまで表現できているかと言うと、ちょっと難しいかと思います。一字あけても「幼子が炭水化物を抜くの、と澄ます」と、ほとんどの読者は思うでしょう。ここはどうしても、時の流れを表現する、補助の言葉が必要です。

 

「ちゅるちゅる」をねだりしおさな 今ははや「炭水化物は抜くの」と澄ます

 

このようにしてみました。「今ははや」の言葉を入れることで、時の流れが表現できたと思います。「幼子」は「おさな」(文語では「をさな」)と言い換えることができ、字数を稼げます。お小さい時のお嬢様が毎日ねだったことを表現するために、「毎日」とおっしゃりたい気持ちはわかるのですが、さまざまな言葉の入れ替えの関係で、ここは「毎日」を割愛させていただきました。ところで単純な質問なのですが、「ちゅるちゅる」とはどういう食べ物なのでしょう?ネットで検索してもよくわからなくて・・・「ちゅるちゅる」という語感から、ゼリー状のお菓子かとは思うのですが。次回、教えて下さるとうれしいです。

 

 

 

 

②風をいたみ砕けし岩は今もなほ若き歌人を生み出したるよ

 

いろいろ試してみたいと思い、百人一首の47番(風をいたみ岩うつ波のおのれのみ砕けてものを思ふころかな)

の返歌的、感想的な感じで作ってみましたが短歌としてどうでしょうか。

 

 源重之の情熱的な歌の本歌取りであることの評は後にして(この歌は小田原が担当します)、まず原歌の添削から考えたいと思います。気になるのは、下句で「若き歌人を生み出したるよ」と言い切っているところです。一読、「風をいたみ」の歌が、いま現在の若い人たちにそれほどまでに影響を及ぼしているのかな、と、不思議に思いました。あるいは「若き歌人」は、作者ご自身のことでしょうか。

 いずれにせよ、古歌が現在の人々を歌の世界に引き込むという着想自体は良いと思いますので、言い切り、断定的な言葉遣いの部分を改め、現在推量の「らむ」を用いて、次のような添削案を作ってみました。

 

風をいたみ砕けし波はけふもなほ歌のこころをつむぎゐるらむ

 

 「岩」を「波」としたのは、「風があまりに激しいので、岩を打つ波がおのずから砕けるように」という古歌の歌意で「砕け」ているのは「波」だと解釈されるためです。

 また、源重之の古歌は、三句以降の「おのれのみ砕けてものを思ふころかな」の方に、作者(重之)の本意がこめられているように思います。一人で恋の相手を思う片恋の心が、岩に当たって砕ける波のように砕け散る、はげしい情熱の歌なのでしょう。その意味でも、「歌のこころをつむぎゐるらむ」とおさめた次第です。

 

 

③北風がピューピューならば春風はふわふわそわそわルンルンランラン

 

短歌のサークルでのお題が「風」だったのですが、全く思いつかず、試行錯誤している時に書き留めました。

やわらかな春の風の音を平仮名でイメージしているうちに、春というのはやわらかな風から、どんどん弾むような風に、

変化していくのでは?と想像してみたのですが(心の中の風も含めて)

これも短歌としてはどうかなあと、意見をお伺いたく思います。

 

 北風と春風の対比は興味深いと思います。ただ、下句がすっかりオノマトペ(onomatopoeia、擬声語、擬態語)で終わってしまうのは、短歌としての深みも失われますし、もったいないと思います。とくに「ルンルンランラン」はちょっと幼い感じが致します。ですから、下句のオノマトペを少し削り、体言、用言を入れることで、形が整うと思い、このように添削してみました。どんどん弾むような風を表現なさりたかったとのことですが、これは添削案では少し言い足りないところかもしれません。オノマトペを工夫してみると良いかもしれません。

 

北風がピューピューならば春風はふわふわそわと頬を撫でくる

 

先般、「美し言の葉」HPの「小田原・石井の書評さまざま」のなかの、伊藤美耶さんの書評に、オノマトペの優れた作品を挙げてあります。一首ご紹介いたします。参考になさって下さればと思います。

 

起きぬけは糊張りされてゐる体ゆわゆわゆらゆら馴染ませてをり

 

                     『メトロノーム』

                          伊藤美耶

 

 

 

 

 

 

2019.2.4                               作者:佐東阿亜介

・MRIの画像に君臨す脳梗塞の楔まばゆし

(梗塞の血栓は白く光って映っていました。)

 

 脳梗塞で入院なさったと伺いましたが、その後お加減はいかがでしょうか。MRIの画像に梗塞の跡(血栓)がくっきり映っていたという、衝撃的な作品です。ただ惜しむらくは、「君臨す」と「まばゆし」が同じ主体(血栓)の述語となっているところでしょう。結句「まばゆし」でその様子を強く訴えるためには、途中で句切れをはさまずに一首を読み通す必要がありますが、「まばゆ」き「脳梗塞の楔」が「君臨す」と三句切れになっているので、焦点が二か所に分かれてしまっている印象があります。まず、「君臨する」と連体形にすることで、字余りではありますが「まばゆし」を生かす形にすることは可能です。次の通りです。

 

MRIの画像に君臨する脳梗塞の楔まばゆし

 

  また、「君臨」を弱めて、客観的描写にすることで、「まばゆし」を生かすための一案です。

 

MRIの画像をつらぬける脳梗塞の楔まばゆし

 

 そして、「君臨す」を生かすためには、このような手法が考えられます。

 

MRIの画像に君臨す脳梗塞の楔ましろく

 

 

病室の起床時刻はまだ遠く尿導管の違和感続く

(眠りは浅く尿道カテーテルが気になって時間を永く感じました。)

 

 私も昔(三十年以上前です)、三十九日間と二十六日間の入院をしたことがあります。一度目は術後、比較的重篤な状態でしたから、尿管(尿道カテーテル)は「気が付いたらついていた」状態で、それが外された時には、「あったはずのものがなくなった」感覚が少し、ありました(余談です)。二度目のやや軽い入院の時は、「あ、やはりこれか」と思ったものの、前の時の慣れ、というよりもなじみがあるほどの感覚でしたが、その時に、それが取れた際には、やはりそれまでどうしようもない違和感があったのだということに、はじめて気がつきました。

 そして、病院の夜は消灯時間が早く(眠れず)、朝は意外と遅く、目の覚めた患者にとっては諸事動き出すまでがいかにも遠い、所在ない時間となりますよね。そんな時間に尿導管の違和感が続くとされたこの歌は、よくできていると思います。このまま添削なしでも可とすべきところですが、いま一つ、歌にふくらみを持たせるために、添削案を考えてみました。

 

 病室の起床時刻はまだ遠く尿導管がわれを喰ひをり

 

 結句「喰ひをり」は、佐東様の「違和感」とは異なるかもしれませんが、異物が体内に侵食している、ある位置を否応なく占めている感覚を、「喰いついてきている」ニュアンスで表現してみました。

 

 

・リハビリの平行棒をこわごわと握り踏み出す麻痺の右脚

 

 リハビリは平行棒ではじめるのですね。その様子が明確に伝わり、一首の作品としてよくまとまっています。

 ただこれも、主体と述語(主語・述語)の関係なのですが、このままの文脈では、平行棒を「こわごわと握り踏み出す」主体は作者自身のはずなのに、それが「麻痺の右脚」であることになっています。歌会などでの口さがない評者なら、「右脚が握るみたいに読める」と言うかも知れません(作者ご自身のその時のお気持ちを思い、自分が同じ立場にあるところまで感情移入してみると、そうではないこともよくわかるのですが)。

 

 こわごわと平行棒を握りつつそっと踏み出す麻痺の右脚

 

 こわごわと平行棒を握りつつ麻痺したる脚をそっと踏み出す

 

 作品を発表する時は、それと同時に作品が自身の手をはなれ、書かれてある作品として批評にさらされることを覚悟する必要があります。添削案1では、「リハビリ」を割愛して、結句をそのまま生かしました。また添削案2では「リハビリ」を生かすために、「右脚」の「右」だけを割愛しました。四句は字余りになりますが、はじめに指摘した主語・述語の問題を解決するためには助詞の「を」が必要で、そのための字余りはまったく問題になりません。

 

 取捨選択、推敲の際のご参考になれば幸いです。

 

 

 

 

2019.1.14                                   作者:みずしらず

     「サクラサク」伝達手段は変われども その瞬間の思い変わらず

 

変われどもの、どもの表現が気に入らないのですが、他に適当な言葉が見つからずです。

 

 最初に申し上げると、この御作は添削の必要はないと思います。「変われども」の逆説の助動詞「ども」も、適切に使われています。作者が、なぜ、お気に入らなかったか、機会があればお聞きしたいです。鑑賞に入りますと、受験生に、そしてそのご家族にとって何より嬉しい「サクラサク」の朗報。昔は電報や郵便で来たか、実際に学校に見に行って合格を目にしたか、でしょうか。今も実際に発表を見に行くケースもありますが、ネットで分かってしまう学校もありますね。でも、その瞬間の喜びはとてつもなく大きく、誇らしいものでしょう。たったひとつ感じたのは、「伝達手段」という言葉が少し硬いかな、ということです。それに代わる表現を一応考えてみましたが、御作のままでなんら問題はないので、こういう案もあるか、という参考程度にお読みになってください。

 

「サクラサク」時代とともに伝手(つて)変わる その喜びは同じなれども

 

 

     赤白の絵の具をあれこれ混ぜ合わせ自分好みの桜を創らん

 

あれこれというのはが俗っぽいかなあと気になりますが、綺麗な言葉が思いつきません。

 

 この御作もよくまとまった佳品です。確かに「あれこれ」と言うのは、やや口語調ではあります。しかし、歌材の選択もよろしいですし、着想もいいです。あえて「あれこれ」を添削してみました。「あれこれ」の代わりに「こもごも」を用いました。「こもごも」は「交々」と書き、入り混じるという意味があります。そして、ここを「こもごも」とするなら、三句は「混ぜ合わせ」ではなく、「塗り合わせ」がふさうと、石井は考えます。ご一考下さい。

 

赤白の絵の具をこもごも塗り合わせ自分好みの桜を創らん

 

 

     友の娘があの日の顔にそっくりでタイムマシンに乗った気がした

 

年賀状の友達の子どもの写真が、一番一緒に時間を過ごしていた当時の友人の顔=あの日の友の顔にそっくりで

びっくりしたことを詠いたかったのですが、うまくまとまりませんでした。

 

お友達のお子さんが、一緒に過ごしていた頃のお友達のお顔にそっくりで、タイムマシンに乗った気がした。状況のよくわかる御作です。ひとつひとつ申し上げてまいりますと、まず「娘」というのは「こ」と読ませるおつもりだったのですよね?「こ」とルビが振っていないので好感が持てます。「美し言の葉」では「娘」や「息子」に「こ」とルビを振るのには賛成しかねるスタンスをとっております。ルビを安易に使うべきではなく、これでなければ、という自己主張をもったルビでなければ、と常々思っているからです。もちろん、それに限らず、読みづらい漢字に、「絶対にこう読んでほしい」という意味でルビを振ることは賛成です。身内の作品で恐縮ですが、小田原漂情の第四歌集「奇魂・碧魂」から、参考にしていただけそうな歌を一首挙げます。

 

本望と咲(わら)ひて月が笑みかくる真冬ひそかな夜の伽といふ

 

この「咲ふ」に「わらふ」のルビを充てるのは、成功している例と思われます。

 

さて、それでも「娘」という漢字をお使いになるなら、「むすめ」と読ませるときに使うべきだ、と思います。ですから、あえて添削案では「娘」ではなく「子」の字を斡旋しました。また、「あの日の顔」という表現は、注釈を読んでいる私どもにはよくわかりますが、その情報なしで詠むと、「あの日の顔って、誰のどんな顔?」と悩む読者もいるかもしれません。そこで、「かの日の友」と、少し砕いて説明しました。また下句は韻文の短歌という文学には、少し散文的に思えます。ですから、「タイムマシンに乗りしか我も」とまとめてみました。いかがでしょうか?

 

 

友の子がかの日の友にそっくりでタイムマシンに乗りしか我も

 

 

 

 

 

 

2018.12.18                                  作者:みずしらず

時間軸がほんの僅かに傾いて貴方と私は他人となった

 

 「時間軸が傾いて他人となる」という比喩は、大変よいと思います。これは作者の「発見」だと言えましょう。しかし、口語脈を否定するわけではありませんが、少し流行歌の歌詞のような、既視感があるのが残念です。問題は下句だと思います。まず、細かいところから行きますと、「貴方と」と、「他人と」の、助詞の「と」の重なりが気になります。ですから、添削案では、助詞の「に」に改めました。また、下句が口語だと、先ほど申し上げた「既視感」が出てしまうので、結句を文語の、完了の助動詞「ぬ」で収めました。いま、おそらく歌壇では、だいぶ前から文語と口語の並立が容認されていると思われ、最初の添削案では、文語・口語混在型にしました。次案では、完全に文語でまとめました。この場合「汝」は「なれ」と読ませます。

 あとさきになってしまいましたが、初句の「時間軸が」の六音の字余りがちょっと気になりました。そこで、「時間軸かすかにかしぎ」とし、余った音数に「気がつけば」という言葉を織り込みましたが、いかがでしょうか?

 

時間軸かすかにかしぎ気がつけば貴方と私は他人になりぬ

 

時間軸かすかにかしぎ気がつけば汝と我とは他人になりぬ

 

 

そしてまた時間の軸が傾いて貴方と出逢い言葉失う

 

 これは一首目と合わせて読む、対の作品だと解釈致しました。結句の「言葉失う」は、唐突さが逆によい距離感を表しています。ただ、しつこいようですが、「そしてまた」の口語に、やや散文的な印象を受けます。特に初句に「そして」という口語を使うと、散文的な感じが強くなるように思います。ですから、初句の「そしてまた」は割愛させていただきました。ここでも音数にゆとりができますので、「ふたたびの」の語を入れてみました。また、一首目でも言えることですが、初句から結句まで、ひとつながりになっています。それも散文的な感じを強調しているように思います。ですから、添削案では完全に四句切れという訳ではありませんが、「逢い」という体言(名詞)を持ってきて、やや切れる感じを出すことで、屈折を作りました。

 

時間軸またも傾きふたたびの貴方との逢い言葉失う

 

 

あと何年続くのだろう雛飾り 夫と二人片付け急ぐ

 

あと何年続くやらん雛飾り夫と二人片付け急ぎ

 

 三首目は、古語で表現したかった、と後からのメールでおっしゃっていたことを取り混ぜ、最初の御作と二首あわせて、文語(古語)で添削してみました。「続くやらん」という文法は、残念ですが無理があります。「続くらん」なら、「らん(らむ)」が推量の助動詞なので、「続くのだろう」の意で使えます。ですが、疑問の意を表す係助詞「や」には、「らむ」は接続しません。ここを文語で表現するなら、「ならむ」(断定の助動詞(なり)の未然形(なら)に、推量の助動詞(む)が接続したもの」に、疑問の意を表す係助詞「か」をつなげて、「ならむか(ならんか)」とするのがよろしいかと思います。いかがでしょうか?

 

 

あと何年続くならんか雛飾り 夫と二人片付け急ぐ

 

 

 

 

 

2019.10.30                                  作者:みずしらず

     街中に「平成最後」が溢れ出す 枕詞と見紛うほどに

 

「枕詞」は、短歌を志す上で避けて通れない重要事項です。そのため、少々突っ込んで

論じますので、言い過ぎの点があったら読み飛ばして下さい。

 そもそも、「枕詞=まくらことば」とは、短歌などの和歌を詠む際に特定の語句を導き出すものとしてあらかじめ決まっている「五音または四音のことぱ」です。ただ、「本来の意味に加え『前置き』の意味もあると知り」とのお言葉から、『広辞苑』第四版を引いてみたところ、たしかに②として「前置きの意味」が書いてありました。

 ところで、私(小田原)は会社生活の中でこの②の意味の「まくらことば」という言い方を聞いたことがあり、落語の導入部分のつかみである「マクラ」の性質をも含めて、そのようなニュアンスの用い方が生じたのではないかと感じました。落語も江戸期に完成されていますから、可能性は高いと思います。

 そしてそれ以上に、五句三十一音の短歌表現の中で「枕詞」を用いるとき、そこでは読者の感覚の問題を筆頭に、枕詞は本来の意でなければ通らないと考えるのですが、いかがでしょうか。つまり短歌作品とその周辺で論じる「枕詞」は、あくまで①の、本来の歌に関する「枕詞」であるべきだという考えです。

 

 ただ、原歌の歌意は面白いな、と、一読して受け止めました。「平成最後」「平成最後の」という前置きが、枕詞のように巷にあふれているという着想自体は、作者固有の発見として生きるものだと思われます。しかし短歌の枕詞は五音または四音ですから、「へいせいさいご」の六音ではぴったりしない点が、「言葉遊び」としても一考すべきところでしょう。また、「前置き」の意については言及しない方が、原歌の遊び心を生かすと考えます。

 

 とはいえ、広辞苑②の「枕詞」(前置きの意)は別に音数の規定を伴いませんし、巷にあふれているものも同じですから、原歌の言葉選びを変えることで、先述した懸念を回避し、原価の買いを無理なく表現することができるだろうと考えました(「枕詞と見紛う」と言っては、五音、四音のものであるべきと受け取られますから)。

 

街中にあふれるように乱れ飛ぶ「平成最後」はまくらことばか

 

全ての日本人にとって初めてのことが近づき、あちこちで「平成最後」という言葉を日々見聞きするようになりました。

枕言葉には本来の意味に加え「前置き」の意味もあると知り使ってみたのですが。

 

 

     高額なテレビを買いし父を諭す嬉しい記憶は遠きになりぬ

 

「川柳的になってしまう」という点、過去の添削記事をよくお読みいただいているよう

 で、うれしく思います。「4Kテレビ」の案の方は、たしかにそのようなきらいがあります。

また「川柳的」にならないためには、短歌作品では句切れをうまく用いて断絶を盛り込むことで、意を果たすことができますので、その点から添削してみました。

 

高額な家電に沸きし日は遠し4Kテレビと父を諭しぬ

 

  「嬉しい記憶」は、添え書きがなくても一首の中に盛り込みたいものです。「沸きし」 

 で、その意は伝わるでしょう。そして短歌は省略の詩型ですから、「4Kテレビと父を諭

 す」で、歌意全体も伝わるだろうと考えます。

 

子どもの頃、新しいもの好きの父が最新型の家電などを買ってくると、とても嬉しかった記

憶があります。

今は「使いこなせないし、母と2人家族なのにもったいない」などと父を非難するようになってしまいました。

「災害とパワハラ画像が埋め尽くす50インチの4Kテレビ」という歌も父へ嫌味?を兼ねて思いついたですが、

これだとHPで書かれていたような川柳的になってしまうのですよね。

 

 

     「また会おうね」が「これが最後」の意味ならば言葉の意味はどこにあるのか

 

 「また会おうね」が「これが最後」の意だと言ったのは、NHK短歌のゲストだということですが、どんな人たちなのでしょう?歌人ですかね。よかったら次の機会に、教えていただきたいと思います。

 さて、言葉の解釈の問題として、「また会おうね」が、「もう会わない、これが最後」の意味だというのは、きわめて限定的なものであり、ありていに言ってしまえば、取るに足らないものだと言えます。

 それは、たしかにある年代、ある職業(?)の、「ある感覚が共通理解、もしくはそれがステータスであると誤解している人たち」の間では、そのような決まったフレーズになっているのかも知れません。

 しかし、言葉とは、短いその何音かの響きの中に、幾通りもの、深い意味と思いを内包しうる器です。たとえば、つぎのような例を想定してみましょう。

 

A.     いわゆる「遠距離恋愛」の恋人同士が、別れ際に交わす「また会おうね」。

B.      離れ離れに暮らす父と子が、次回の約束を結ぶこともなく口にする「また会おうね」。

C.     数十年ぶりに再会したクラスメートが、次の予定は立たない中で交換する「また会おうね」。

 

これ以上並べ立てる必要はないと思いますが、「また会おうね」=「もう会わない」などとまくし立てるのは、ある特殊な意識に思い上がった一部の人の、安っぽい思い込みに過ぎないと思われます。

 

さて、そのような映像を垂れ流しにするNHK短歌も、言葉をあつかうメディアとしていかがなものかと思いますが、作者のように言葉と真摯に向き合う方が、そのような曖昧な言説に左右されるのは、もったいないと思います。

 

とはいえ、ある意味で「聞き捨てならない」言葉でもありますから、それを風刺する一首としての添削を、行ないました。

 

・「また会おうね」が「これが最後」の意味だという 言葉はどこに安らげるのか

 

 NHK短歌という、言葉のありようをテーマとしているメディアがそのような言葉づかいをゆるすばかりか、視聴者に大きな誤解を抱かせる愚行を犯しているなら、「言葉」の落ち着きどころ、安らぐ場所はありません。このように添削してみました。

 

先日NHK短歌を見ていたら、ゲスト方が「また会おうね」というのは「もう会わない、今日が最後」の

意味だと話されていたのを見ました。また会いたい場合は、次回の日にちや時期をその場で決めるとのこと。

 

日本語は難しいなあと思いました。

 

 

 

 

 

2018.9.20                                      作者:佐東亜阿介

・手術室閉ぢし扉の向かふには命灯して闘ふ家族

 

  非常に重い内容の作品ですが、暗く、重々しい感じを受けません。それは四句の「命灯して」が絶望的でない、明るい語感を有しているからであり、つづく結句の「闘ふ」が、見守っている作者の強い心をも表しているからでしょう。

  ただ、愛する家族が手術室の扉の向こうで命をかけて闘っている、その時間を、こちら側で祈りながら待つ作者のお心は、いかばかりでしょう。特に初句、二句の「手術室閉ぢし扉の」が、拳を握り締めて祈っている作者の姿を読者の目に浮かばせて、緊迫した時間を思わせます。

しかし、四句の「命灯して」が、作者とこの作品、そして読者の間をつなぐ緊張感を、言葉の力でゆったりとつつんでいるような安らぎを感じます。

  この作品は、添削の必要がないと考えます。強いて言うならば、「家族」をいま少し具体的な表現にすることで、より切実さが伝わるといったたぐいの批評はあるだろうと思いますが、作者の判断で特定しない「家族」にとどめる、という選択のうちにおさめられると言えましょう。

この時手術を受けられたご家族のご健康を、お祈りするばかりです。

 

 

滑り出し傾く機窓真上から富士を見下ろす針路の旅へ

 

  私個人の身めぐりで言うと、飛行機にはもう二十年ぐらい、乗っていません。羽田からのフライトでしょうか、大きな旋回を終えて、気がつくと眼下に富士山が見えるという情景を、なつかしく思い返しました。

  さて、歌作品としての批評、添削に入りますと、結句の「針路の旅へ」には一考が必要ではないでしょうか。「針路」という言葉に、作者固有の背景があり、思い入れもあるものと読みとれますが、飛行機の行く手もまた「針路」であり、この結句の形のままでは、その点がダブるというか、大づかみに過ぎるというか、読者として物足りないものを感じてしまうのです。

  そこで「針路」をほかの言葉に置き換えることから、添削を試みます。

 

   滑り出し傾く機窓真上から富士を見下ろす新たな旅へ

 

滑り出し傾く機窓真上から富士を見下ろす決意の旅へ

 

   滑り出し傾く機窓真上から富士を見下ろす門出の旅へ

 

  いずれもそれなりに、この歌のありどころを示すものにはなりそうですが、決定打と 

 はならないようです。やはり作者ご自身が、思いのあるところを同種の言葉におきかえるのが良いのではないかと思います。

  なお「機窓(きそう)」は、ネット検索をすると三省堂の『大辞林』などにも載っているようですが、平成の初期に出た『広辞苑第四版』では取り上げられておらず、かなり新しく市民権を得た言葉だと思います。また「車窓(しゃそう)」であっても音音読みの漢語調の言葉は歌の中に置きづらいため、私は違う言い回しをすることに活路を見出します。「飛行機の窓から見る景色」に相当する言葉がなかなか見つからないのは承知しておりますが、ご参考までに、私見をつけ加えました。

 

 

・船旅を終へて戻りし同僚の土産を貰ふぢつと手を見る

 

  以前に言及したこともあるかと思いますが、あまりに人口に膾炙した作品の本歌取りは、むずかしいものです。この歌では啄木の「はたらけど/はたらけどなほわが暮らし楽にならざり/ぢつと手を見る」の結句を引いていますね。

  しかし今回の作品では、著名な歌の本歌取りは止めた方が良い、というような印象は受けません。むしろ作者が、なぜ「ぢっと手を見」たのか、そこに興味を引かれます。

  「船旅」ということですから、同僚の方は函館から船で帰って来られたのか。あるいは啄木を強く思わせるお土産だったのか。もしくは、啄木の歌の三句・四句に関連する思いなのか、など、言葉の奥にある作者の思いをあれこれと想像できる、ある意味楽しい作品となっています。

 

  一首目同様、啄木の「ぢつと手を見る」の本歌取りであることへの賛否はあるでしょうが、添削は必要ないと考えます。また、このところ歴史的仮名遣いになさっているようですが、言うまでもなくこうした本歌取りの際は原歌の通りにするのが基本ですから、その意味でも、歴史的仮名遣いの方が諸事やりやすいということが言えそうですね。

 

 

 

 

 

2018.10.9                                 作者:みずしらず

①その子二十年金保険の通知有り 半世紀後の幸せ祈る

 

今年娘が20才になり、国民年金の加入書が届きました。娘が受け取る頃、

日本はどのような世の中になっているでしょうか。平和で幸せな日々であることを祈ります。

初句は本歌取りになりうるのでしょうか?

 

 「本歌取り」について、まず小田原がお答えします。ご存知の通り本歌取りとは、過去の名歌の一部の語句・表現を借り受け、その歌の「心」「味わい」に作者独自の視点や思いを添わせて、本歌とは異なる、独立した作品として一首を作り上げることを言います。その点で、初句のみを借りて本歌取りをすることはあり得ると言えましょうが、本歌取りとはむずかしいもので、単なるパロディに陥ってしまうことも多いので、注意が必要です(昨今とくに、短歌、俳句ともに悪質または低俗なパロディが多いようです)。

 また、与謝野明子や斎藤茂吉など誰もが知っている著名な歌人の、しかも人口に膾炙した名歌の本歌取りは、元の歌のイメージが強く、乗り越えることも容易ではないので、私どもは避けることが多いです。

 御作は、娘さんの将来を思うまっすぐな心情が好もしく受け止められますから、むしろ晶子の「おごりの春」をイメージされないように、初句をほんの少し「ずらす」ことで、晶子の歌を意識しながら、本歌取りと取られることを回避した作品、という次の添削に、可能性があるように思われます。いかがでしょうか。

 

わが子二十年金保険の通知有り 半世紀後の幸せ祈る

 

いい加減「乳離れしろ」と呟く少年が睨む父の日セール

 

父の日の前になると街中やSNS上も含めて「#父の日」や父の日に関連した文字が溢れます。

そんな中に、当時高校生だった娘の友達が「父の日、父の日ってみんな赤ん坊かよ。いい加減乳離れしろ」と

投稿しているSNSを娘から見せてもらいました。

普段そういうことは絶対言わない、とてもクールな少年なので娘も驚いたのでしょう。

父のいない寂しさは高校生になっても心の奥にずっとあるのだと思いました。31文字に上手くまとめられず、

添削をお願いしたいと思いました。

 

 代わって石井です。本当に、父の日や母の日など、街の店やSNSで、うるさいほどの煽りようであり、ちょっと辟易しますね。お嬢様のお友達が、「いい加減乳離れしろ」と呟いたのもわかる気がします。

 添削に入りますが、作者は31文字に上手くまとめられなかったとおっしゃいますが、31文字にはなっていますよ?(四句は八音で字余りですが)。

 「いい加減」「乳離れしろ」「と呟く」「少年が睨む」「父の日セール」のように。ただ、初読で、この御作を31文字のリズムで読める読者はそういないと思います。やはり手を加える必要があります。

 ます、「いい加減」はなくてもよいと思います。また、「いい加減」を生かすなら、「いい加減乳離れしろ」と、全部括弧表記のなかに収めるべきだと思います。ここでは、「いい加減」を省いた形で添削を試みます。初句から「乳離れしろ」と始め、余裕のできた下句を、「睨む父の日セールの騒ぎ」としてみました。「睨む父の日」「セールの騒ぎ」と、句割れ句跨りにはなりますが、上句のリズムを整えたことで、そんなに気にならないのでは、と考えます。

 

「乳離れしろ」と呟く少年が睨む父の日セールの騒ぎ

 

三首目は再び小田原が担当します。

 

 

③盲目の皇子が見つめし逢坂はいしにえびとの聖地となりなむ

 

先日の連休に蝉丸神社(逢坂の関跡)に行ってきました。ちょっとだけ文語に挑戦ということで作ってみたのですが、

文法も含めてどうでしょうか。過去推量で終わらせたかったのですが・・。

聖地は今風な解釈で取ったのも自信がないところです。

 

 文法について、まずご説明します。「過去推量」の助動詞は、「けむ」です。とはいえ、現在短歌作品を書くにあたって、必ずしも厳密に文法の決まりに従う必要はなく(ある程度意味が通るならば、という意味においてです)、「なむ」でも通る場合もあるでしょう。

 ところでその「なむ」ですが、大学入試などでも「なむ」の識別というのが一つのジャンルになっていますから、解説しておきます。

     係助詞の「なむ」・・・「ぞ」とともに、連体形の結びを取って驚異をあらわす。

     終助詞の「なむ」・・・あつらえの「なむ」とも言う。用言の未然形に接続し、「他への願望」をあらわす。

     完了の助動詞「ぬ」の未然形で強意の用法。推量の助動詞「む」の推量の意を強める(語調を整える役目も)。

(④ナ変動詞「死ぬ」「往ぬ(去ぬ)=いぬ」の未然形+推量の助動詞「む」)

 

主要なところは以上です。御作で使われているのは③ですね。内容によっては、この「な

む」で過去のことを推量している表現も、あって良いと考えます。

 ただ、「聖地」への疑問を書いておられますが、「昔の人の聖地となったのだろう」という文脈が、そのまま通るかどうかという点を、検討してみましょう。蝉丸が「皇子」であったらしいことをふまえ、「逢坂の関」が歌枕であることを考えても、往時の人々にとって「聖地」とまで呼ばれる場所であったのか、どうか(重要なのは、この歌の読者に、その文脈がすっと受け入れられるかどうかです)。また、「聖地となった」という動詞の「なる」を含む表現がその印象を強めるので、「聖地だったのだろう」ぐらいであれば、「ああ、そうかな」と受け止められる可能性もあるように思われます(「なる」を含むと、著名な事件性ということを考える読者が多いのではないでしょうか)。

 以上の観点から、まず、「なむ」を「けむ」とする添削案をお示しします。

 

  盲目の皇子が見つめし逢坂はいしにえびとの聖地なりけむ

 

 さて、検証が長くなりますが、上句にも一点、用語上の疑義があります。それは「盲目の皇子が見つめし」です。揚げ足を取ることとは異なり、言葉選びの問題として、「盲目」の人が「見つめる」という動作の整合性ということは、実作者として意を払っていただきたいところです。ですからここでも、あまり蝉丸の存在や行動に想像を含めず、「住みにし」ぐらいの客観的的事実にとどめた方が、読者の疑問も少なくなりますし、また作品の背後に読みを広げさせる余地を生むことにもなると考えられます。添削案では、「住む」を「棲む」としてみます。

 

 

   盲目の皇子が棲みにし逢坂はいしにえびとの聖地なりけむ

 

 

 

 

 

2018.9.6                                              作者:みずしらず

今なんじ?時計をはめた手で叫ぶ四十年が瞬時に戻る

 

私もサザンオールスターズが好きです。コンサートは行ったことがありませんが。「今なんじ?そうね、大体ね~」のサビの部分は、サザンを知っている方には、たいていは認知されているのではないでしょうか。ただ、確かに作者がおっしゃる通り、当事者でないと、 これがサザンの歌の一部だとは、わかりづらいと思います。

興味深いのは、サザンの歌の一節と知らなくても、この御作が別の意で解釈できてしまうところです。

例えば、「ある記念日があって、はっと気づいて今なんじ!と叫んでしまい、手にはめた時計を見ると、四十年まえのその時間である。」というような。

短歌は、基本的には自歌自解をつけず、事前情報なしで読むものです。ですから、自歌自解がなかった場合、短歌は作者の手を離れた時から、独り歩きし始めます。つまり、手を離れたら「どう読まれてもいい」という覚悟のようなものが必要だ、と私どもは考えます。

添削に入ります。コンサートの歌であると分かったうえで読む場合、会場の熱気のようなものまで伝わってくる、いい御作だと思います。ただ、「手で叫ぶ」はちょっと苦しいのではないでしょうか?重箱の隅をつつくようですが、「手が叫ぶ」ようにも読めてしまうからです。「叫ぶ」というのは、コンサートの盛り上がりを表現していて、作者としてははずしたくないかも知れません。が、あえて整合性を考えて添削するとこうなります。

 

今なんじ?時計をはめた手を上げる四十年が瞬時に戻る

 

今なんじ?時計をはめた手がおどる四十年が瞬時に戻る

 

 

真っ白なクリーンルームで読み返す二十歳の夏のサンテグジュペリ

 

 二十歳で、しかもクリーンルームで闘病されている、お嬢様のお友達はどんなにつらい毎日を送っていらっしゃることでしょう。ただ、この御作も、違った意味に解釈できてしまうのです。問題点は「読み返す」です。これだと、読むのが作者自身の行為で、作者の二十歳の頃を振り返っている、と読めてしまうのです。これを解決するには、「読み返す」を「読みいるか」に改めるといいと思います。

 

真っ白なクリーンルームで読みいるか二十歳の夏のサンテグジュペリ

 

 いかがでしょうか?

 

降りてくるエレベーターをじっと待つ駆け上がり来るセーラー眩し

 

エレベーターが降りてくるのをじっと待っているとき、かろやかな足取りでセーラー服を着た高校生が、階段を駆け上がってきた。その若い姿に自分の加齢を突きつけられるとともに、眩しく、また羨しくも感じられる・・・。わたくしも身につまされる、共感できる御作です。

ただすこし気になるのが「セーラー」と「眩し」です。作者は「セーラー服」の意味で使っていらっしゃると思いますが、「セーラー」は本来「水兵」の意です。「セーラー」をこのように用いるのは、私どもはぎりぎり許容範囲であると考えます。また「セーラー(服)」が「眩し」というのも、もちろん場合によってはありうる表現ですが、この歌の文脈では、少々無理があると思われます。「眩し」いのは、セーラー服をまとった少女のはずであり、「セーラー」の言葉だけでそれをあらわすのは、むずかしいと思います。

「セーラー」自体はよしとし、「眩し」を改めた添削案をお示し致します。

 

降りてくるエレベーターを待ちおればセーラー服の足どり軽し

 

ここで、三首目の添削で用いた「おる(おれ)」についてご説明します。当初は二首目も「読みおるか」としたのですが、三首目と重なるので、二首目の方は「読みいるか」と改めました。

さて、この「おる」は、文語(古文)・歴史的仮名遣い(旧仮名遣い)では「をり」というラ行変格活用の動詞で、ある場所に「居る」意のほかに、補助動詞として「~している」の意を添える使いみちがあります。三首目の歌で言うと、「降りてくるエレベーターを待っていると」、かたわらの階段を駆け上がって来る女子高生の姿に眩しさを感じた(ただし少女の動きが主となっているので、「軽し」としました)、という文脈を作ることができます。

今後長いスパンで見たときに、部分部分でも文語(古文)の言い回しを使ってみることに、挑戦してみてはいかがでしょうか。文法的には、「降りてくる」(連体形ですが終止形と同型)、「じっと待つ」、「駆け上がり来る」(やはり連体形ですが終止形と同型)とウ段音が三つ重なっている(る、つ、る)構造のマイナス面も、文語(古文の文体、文法)を用いることで解決できる場合があります(上記添削案は、三句を「待ちおれば」とすることで解決しました)。

文語(古文の文体、文法)の言い回しをもしお使いになる場合は、見よう見まねでかまいませんから、どんどん使ってみて下さい。添削を含め、文法の解説も致します。ぜひまた新しい作品をお送り下さいますよう、お待ち致しております。

 

 

 

 

 

 

2018.5.23                                           作者:佐東亜阿介

大木を荒削りせる薬師像晩春の風吹く天台寺

 

  大木を粗く削った一木造りの薬師像でしょうか。荒々しい雰囲気が、よく表れています。惜しむらくは下句のリズムで、「ばんしゅんのかぜ」「ふくてんだいじ」と七・七になってはいるのですが、表意文字である漢字で意味を読みとって行くと、「晩春の」「風吹く」「天台寺」のように読めてしまい、そうでありながらその「破調の妙」を有するものにもなっていません。

  また、固有名詞をどのように、そしてどこまで盛り込むかは、その固有名詞の知名度と作者の思いの強弱、それがどれだけ一首を生かすかということが、文字通り微妙なバランスで釣り合いをとる中で判断すべきであり、むずかしいところです。まずは残念ながら「天台寺」を省く形で、添削してみました。

 

大木を荒削りせし薬師像おそ春の風を受けてひた立つ

 

「荒削りの薬師像」を生かすためには、このような詠み方がオーソドックスな方法であります。「天台寺」を生かすならば、次のようなところでしょうか。

 

  天台寺 粗削りなる薬師像に吹きたわむ風春の終わりに

 

 

・氏神の手水に浮かぶ花数多風に吹かるる実方桜

 

 掲示板で拝見した「実方桜」の歌ですね。感慨深いです。歌作品の批評としては、上句、下句それぞれは良い言葉運びであるものの、上句の「手水に浮かぶ花」と下句の「実方桜」が別々に対置されている感じになっている点が、惜しく思われます。

 

  風に吹かれ手水に散れる花あまた実方桜は水こそよけれ

 

 

 

・浜風の強き横浜町の野辺菜種の花をひもねす揺らす 

 

 「横浜町」は、神奈川に住んでいた中・高生時代、下北半島にも横浜という町があるんだ、という発見に、心ときめいた思い出があります。残念ながらたずねたことはないのですが、なつかしく拝読しました。

 さて、作品の上でも、おそらく神奈川の横浜を意識して、「横浜町」とされたのかと思いました。あるいはご当地では、そのように呼ぶのがならいなのかとも考えられますが、そのことがかえって読者に疑念を抱かせる恐れがあるのではないでしょうか(なぜ横浜「町」とことさら断るのか、もしくは「え、あの横浜に『町』とはなにゆえ?、など)。また下句の「なたねの/はなを」「ひねもす/ゆらす」という四音/三音の繰り返しは、そこで用いられる言葉自体のアクセントにもよるのですが、私はあまりおすすめしません。

 添削案は、「横浜町」を「横浜」とするために、「陸奥」「陸奥湾」の固有名詞を織り込みました。また「菜種の花」は、「菜花」とすることで、省略を効かせ他の表現を盛り込む効果があります(添削案では「陸奥」を加えることができました)。いかがでしょうか。

 

  浜風にひねもす揺るる菜花かも陸奥の風吹く横浜の野辺

 

陸奥湾の風にひねもす揺れており菜花群れ咲く横浜の野辺

 

 二案目の方では、揺れているのが「横浜の野辺」である文脈になりますが、「一面の菜花が揺れている野辺」全体が揺れる景として、許容される範囲かと思います。横浜町の菜の花畑を、一度見に行ってみたいという気持ちになりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

2017.12.29                                                   作者:佐東亜阿介

すこし抜本的な指摘とご提案とを、させていただきたいと思います。今回お寄せいただいた三首とも、みな五・七・五・七・七のリズムにうまく当てはめられているのですが、ちょっと前にも申し上げた「川柳的」なまとまり方に、なってはいないでしょうか。その点を中心に、批評・添削をさせていただきます。

 

 

・思いきり足を伸ばして息を吐く銭湯というたまの贅沢

(NHK短歌兼題「お風呂」2016年11月募集)

 

 この作品で言うと、「たまの贅沢」を結句にしていることで、すべてが散文的であり、それを五句三十一音の定型にまとめている印象です。が、文学作品、あるいは「詩」としての短歌では、銭湯につかるのが「たまの贅沢」であることを作品から読みとってもらうことに、生きる道があります。フィクションであっても、次の添削案のように「二か月ぶりの」というような具体を盛りこむことで、それが可能になると考えます。

 

思いきり足を伸ばして息を吐く二か月ぶりの銭湯の贅(ぜい)

 

 

・小太鼓を叩きお腹へ呼び掛ける我が子に父の声聴かそうと

(NHK短歌兼題「聴く」2016年12月募集)

 

 奥様のお腹の中に、作者のお子さんがおられる時のシーンでしょうか。やはり下句が、作者の思いそのままになってしまっている点に、一考の余地があろうと思われます。添削案では、胎児にも聴こえるかな?という問いを歌の眼目とすることで、「詩」の味わいを盛りこんでみようとしています。

 

小太鼓を叩きお腹へ呼び掛ける我が子も父の声を聴くやと

 

 

・起きてふと鞄片手に一人旅そんな老後を迎えたいなあ

(NHK短歌兼題「夢」2016年12月募集)

 

 この作では、口語脈を文語脈に改めさせていただきました。文語でなければいけないとは毛頭考えておりませんが、そもそも「口語」という言葉は、日本語、国語、文学で「現代の言葉」であるとする以前に、「書き言葉」に対する「話し言葉」の意を有しています。

そして「話し言葉」は、『サラダ記念日』以降歌壇においても圧倒的な市民権を得たのですが、こんにち(われわれが)『サラダ記念日』を読むと色褪せた部分も多いですし、中にはそうした批判を寄せつけない秀歌もあるものの、それは俵氏独自の個性によるものとも考えられます。冒頭申し上げた「川柳的」であることとのかねあいも含め、文語脈で、短詩形の省略、圧縮のすべをご一考いただきたく、提示させていただきます。

 

 

目ざむるや鞄片手に一人旅 迎えてみたしそんな老後を

 

 

 屈折、断絶、展開。五句三十一音の短い詩形の中に、それらがあるための、「詩ごころの妙味」をうたうことが、短歌や俳句の、川柳とは異なる生き道だと考える次第です。ここまでが「指摘」でありますが、次に「提案」をさせていただきます。

  以前にNHK短歌などに出された「過去の作」でなく、新作、もしくは「出したけれどまだ結果の出ていない作」を、添削稿としてお送りいただくわけには、行かないでしょうか。その方が、佐東様の現在のお気持ち、表現力に沿って、よりリアルタイムのアドバイスができるように考える次第です。ご一考下さい。

 

 

 

2017.10.28                                                     作者:佐東亜阿介

・山寺の石仏並ぶ道登る我の先行く幼子二人

(NHK短歌兼題「山」2016年11月募集)

 

 「山」のお題に対する「山寺」、良いセンスと思います。惜しいのは、「並ぶ」「登る」「行く」の四段活用動詞三つがつづいているところです。「並ぶ」は「道」にかかる連体形、「登る」は三句切れ終止形の意と思われますが、四段動詞自体が終止・連体同形のため、「我」に絶対かからないとは言い切れぬうらみがあります。そして「行く」は連体形なのですが、この四段動詞三か所でその都度リズムは切れる印象があるので、その点を改善しましょう。

 

石仏の並ぶいしみち山寺に我の先行く幼子二人

 

 

・クリスマス赤白緑街飾る照れて戸惑う無機質のビル

(NHK短歌兼題「飾る」2016年11月募集)

 

クリスマスの飾りつけで、無機質であるビルが戸惑っているという着眼は、良いと思います。惜しいのは、初句と二句がいずれも名詞で、しかも三句に対して助詞を置かずにつづいている点です。助詞を添えると字余りにはなりますが、それでも短歌としての言葉運びは、添削案のような方向性が望ましいと考えます。

 

無機質のビル彩られ戸惑えり赤白緑と降誕祭に

 

 添削案①の三句は、完了・存続の助動詞「り」を用いています。より口語的にまとめるためには、次の②案もありえるかと思います。

 

無機質のビル彩られ戸惑うか赤白緑の降誕前夜

 

 結句は「降誕祭に」と「降誕前夜」、いかように差し替えてもかまいません。

 

 

・二日酔いだった二十歳の明くる朝空瓶赤と白二本ずつ

(NHK短歌兼題「ワイン」2016年11月募集)

 

合計4本、すごい酒量ですね。短歌としては三句切れで、「二日酔いだった」「二十歳の」「明くる」という三つの修飾語がすべて「朝」にかかって行く点がマイナスです。その点を解決し、「二日酔い」を焦点に一度切ることで、「詩性」を持たせました。「二日酔いなりき」で切るのは、二句の途中で俳句の「中間切れ」的な断絶をつくるのですが、短歌では「句割れ・句またがり」という手法です。場合によっては、この種の詠み方もありえるのです。また、「クリスマス」の25日に二日酔いだと詠うのなら、「イブ」を効果的に使うと良いでしょう。当時は25日の夜にワインをたくさん飲むような風潮ではなかったように思いますので、以下の一案を添削案とさせていただきます。

 

二日酔いなりき二十歳のクリスマス赤白四本イブに空けたり

 

 

 

2017.9.6                                                         作者:中溝幸夫

    なにゆえに激しき雨の中登るわれ登山とはかくなるものと…

 

 「詩」の表現の仕方において、現代詩はさまざまな記号を用いたり、文字の配置をランダムに配したり、という試みを許容し、進展して来ました。が、短歌や俳句では、それらはあまり受け入れられて来なかったという経緯があります。90年代の後半、荻原裕幸氏が一時積極的に試みましたが、「試み」にとどまったようです。

 というのも、短歌や俳句はそもそも定型の短詩形文学であり、「音韻」や「間」にその存在意義があります。従って、短い詩形の制約の中でどのように言葉を組み合わせ、斡旋するかという点に意を払うべきだということが、大きな前提となるでしょう。

 私自身もある程度の記号(伏字)などは試したことがあり、中溝様の試行をまったく否定するものではありません。しかしながら、「添削」としては、先に述べたことを理由に「…」を回避する狙いで、案を示させていただきます(言葉を変えると、「…」のような記号類を避けてどのように詠うか、ということを、作歌の目標にしたいということです)。

 

なにゆえに激しき雨の中登るわが登山とはかくなるものぞ

 

結びの「ぞ」は、「か」や「よ」に置き換えても良いでしょう。ご検討いただければうれしいです。

 

 

    この雨が大地潤し生き物を育てる星は水の惑星

 

主語が「雨」と「星」の二つになっている点を、改める必要があります。一案としては

「この」雨が降っているのは地球であると自明のことですから、主語を「雨」として、次のように詠むことが可能です。

 

この雨が大地うるおし生き物をはぐくみており水の惑星

 

「星」を主語とするのなら、雨の所作「星」の修飾であることがはっきりわかるようにする(「従」の連文節とする)必要があります。以下の案でいかがでしょうか。

 

 降る雨が地を潤して生き物をはぐくむ星は水の惑星

 

 

 

    大杉に祈りをささげ山伏がいざ白山を…と美濃道を登る

 

一首目でも「…」を回避しましたが、その理由として、短歌のリズムを「拍」が律して

いる、という理論(別宮貞徳ほか)を、私が支持していることがあります。音符で言えば、八分音符8つ分が五句一つ一つの長さであり、五音句には三拍の空白が、七音句には一拍の空白があるというものです。

 またその説によらずとも、「…」でとらえがたい「間」が生まれることは、多くの歌人もしくは読者が、好まないと思います。あくまば短歌のオーソドックスな定型で詠みきることを主眼として、添削案をお示しします。

 

 山伏がいざ白山をと大杉に祈り捧げて美濃道をゆく

 

 この添削案では、原歌の「いざ白山を」の「を」を生かしました。しかしこの形においては、次の「白山へ」の方が、まとまりがよくなると思います。

 

 山伏がいざ白山へと大杉に祈り捧げて美濃道をゆく

 

 

2017.8.28                                    作者:佐東亜阿介

麓まで紅葉たちが下りて来た白い帽子をかぶる時まで

(NHK短歌兼題「山」2016年11月募集)

 

 着想、情景は魅力的です。が、全体として口語脈、それも「話し言葉」のようであり、惜しいところがあります。とくに注意すべきは、二句の「紅葉たち」でしょうか。

 

  麓まで紅葉に染まる山の秋白い帽子の時までしばし

 

麓まで紅葉に染まる山の秋白き帽子となるまでしばし

 

 「麓」は、「頂」と対になっている言葉です。もちろん、「麓まで『紅く』または『白く』染まる」という描写は、古くから存在するものと思われます。その点、原歌の「色」と季節の対比はみごとですが、言葉づかいとしては、「下りて来た」と「かぶる時まで」が、うまく呼応しておりません。

 そこで添削案では、ともに三句切れ、基本的には同じ構成とし、一案目は原歌の口語脈の雰囲気を生かしました。二案目は、文語脈として安定を図っています。

 

 

・クリスマスツリーへ君が飾る箱色とりどりの中身はなあに?

(NHK短歌兼題「飾る」2016年11月募集)

 

 お子さんが、クリスマスツリーに色とりどりの、中に何かが入っているらしい「箱」を飾りつけているのでしょう。結句の「なあに?」という呼びかけは、親御さんのストレートな気持ちの表出と読めますが、短歌における「ことば」の印象、また「色とりどり」であるのは箱の外見であろうと思われる因果関係から考えても、一考の余地がありそうです。

 

クリスマス君の飾れるとりどりの箱がはなやぐ 中身はなあに?

 

クリスマス君はいま何を飾るのか色とりどりのツリーの箱に 

 

 一案目は、原歌の結句を生かしています。「箱はなやかに」という四句の案も考えましたが、形容動詞では少し無理があるため、動詞で四句切れとし、一字アキとしました。また二句の助詞「が」を「の」と改めています。

 

 二案目は、二句が字余りにはなりますが、お子さんが飾っている「もの」が、物理的な「物」に限定されない、心をも含んだ「もの」になり、広がりが生まれると考えたものです。いかがでしょうか。

 

 

首筋とお尻を支え湯の中へ初めて帰宅した夜君を

(NHK短歌兼題「お風呂」2016年11月募集)

 

・首筋と尻に手を添え湯に入れる子を得て初の沐浴の夜

 

 こちらの「原歌」(現在なら、の方)は、短歌としてよくまとまっています。当初の「原案」(当初の歌)に対して、三句が「湯に入れる」と、きちんと動詞で表現されており、三句切れとしての定着も得ているためです。くらべて、「原案」は、おそらくはじめてのお子さんを自宅に連れ帰って、おそるおそる湯あみさせた(遠い日の)お父さんのお気持ちがよく伝わるのですが、三句、結句に表現としてこなれないものがありますので、現在の作者の「このように詠むだろう」という「原歌」の方を、支持するものです。

 ただ、三句切れをよりはっきりさせるために、三句にのみ、添削をさせていただきます。こうすることで、さらに一首が安定し、情感の伝わる歌になるはずです。

 

 首筋と尻に手を添え湯に入れぬ子を得て初の沐浴の夜

 

 「ぬ」は完了の助動詞ですから、お子さんを湯あみさせた行為が、そこで一度定着します。助動詞・助詞を文語脈で使いこなすと、短歌の幅がぐっとひろがります。今後のご参考としても気にとめていただければ幸いです。もちろん口語脈を否定するものではありません。

 

 

2017.7.3                                          作者:佐東亜阿介

・おつかいの頃から五十年行った酒屋が昨日見たらコンビニ

(NHK短歌兼題「コンビニ」2016年10月募集)

 

この一首は、おそらく作者の思いの中で、「おつかい」に対する思い入れが、もっとも強かったのではないでしょうか。「おつかい」、すなわち小学校低・中学年くらいに、日常の当たり前の務めとして、五十年も前から通いなれた酒屋さん、それがある日ふと気がつくと、コンビニに変わり果ててしまっていた、そのお気持ちは、非常によくわかります。

 

批評・添削にうつりますと、下句の「酒屋が昨日見たらコンビニ」に関しては、いま少し練り上げる必要があると思われます。たまたま先日、塾の生徒に俳句と川柳を双方書かせる機会がありました。私は俳句の実作こそ、短歌と並行してわずかに試みたものの、川柳に関してはほとんど評語を持ち合わせておりません。「俳句」と「短歌」の相違については、それぞれの実作(俳句はごくわずかですが)と鑑賞、批評、添削等をつづけて来て、一つ言えることは、俳句が十七音で余分なことの一切を切り捨てて対象に肉薄するのに対し、短歌は七七の分だけ「思い」を盛る余地があり、それゆえその余地が冗語とならぬよう、短歌でなければ盛り込めないものを盛るところに、命がある、という特性があります。

 

前段のことをお伝えした上で、あえて申し上げるのですが、原歌の「酒屋が昨日見たらコンビニ」は、やはり川柳的と言えるのではないでしょうか。

 

小池光さんが言われたのだったかと思いますが、以前、「川柳に七七をつければ短歌になる」という言葉を聞いたことを、ずっと覚えています。「俳句の俳句らしさ」は、「短歌の短歌らしさ」ではなく、短歌のそれはむしろ川柳と同質のものと、考えることができるかも知れません。いずれが正しいか(まして「高尚」か)などということ)でなく、それぞれの志すところ、また言葉運びのありようという面などで、三者にはもとより大きな違いがあるのだということを、ここでは申し上げておきたいと思います。

 

そんな意味で、「酒屋が昨日見たらコンビニ」は、一般論として「川柳的」ではないかと申し上げた次第です。

 

さて、短歌としての添削ですが、「おつかい」は、読者に読みとってもらってもよいと考えます。作者を知る読者の、一連のまとまった認識の中では、この作者が「半世紀」通ったのなら、はじめは「おつかい」だったのかな、と読んでもらうこともできるだろう、ということです。その意味で、「おつかい」を必ず一首の中に盛り込まずとも、背景を読みとってもらうことはできるでしょう。

 

さらに、「読者本意」で、「おつかいの頃」ではなく、自分が飲むために買いに行き出した頃から五十年、と読むとするなら、作者二十歳の頃から半世紀も!ということで、歌の幅がひろがるのです。以上を総合しまして、以下の添削案を提示させていただきます。「五十年」は、添削案では「半世紀」の方が音韻の面で良いと考え、作ってみました。

 

昨日(きぞ)見ればコンビニとなり果てており半世紀通いなれし酒屋が

 

 

・衰える事など無いと信じてた眼も足腰も脳も裏切る(NHK短歌兼題「老い」)

 

 私も先日、今年三度目の風邪を引いてしまい、五十をはさんで丸三年くらい、風邪を引かないときもあったのに、など思っていました。物忘れはしょっちゅうです。お気持ちは、非常によくわかります。

 添削としては、三句の「信じてた」を、まず改めるべきと考えます。また、アクセントや屈折を持たせるために、上下を入れ換え、結句で「裏切られた」感覚を出してみました。四句については、いろいろ動かせると思いますが、一応二案をお示しします。

 

足腰も眼もまた脳も衰えぬ若きままぞと信じてありしに

足腰も眼もまた脳も衰えぬ常に不変と信じてありしに

 

 

出港の連絡船にいたあの日銅鑼叩く音と蛍の光(NHK短歌「光」)

 

題詠は(歌会始も含めて)「光」という一字を詠みこめば良いとは言うのですが、この場合詠むべきは「目に映る『光』」であり、一方原歌では、『蛍の光』という楽曲名になっている点で、少々弱さがあるのではないでしょうか。むろん、「光」そのものでなく、「光輝」「栄光」等々の熟語は問題なく、また蛍の光に「その光で書を読み、学んだ故事」はあるにせよ、『蛍の光』は楽曲のタイトルという固有名詞ですから、作品として「光」を詠んだとは受け取りにくいです。

青函連絡船では、出港の時に『蛍の光』がかかるならいがあったのでしょうか?私自身は連絡船時代に北海道へ渡る機会がなかったため、この点不明です。もしそうであるなら、固有の情景を描写したものとして、歌意は受けとめられるでしょう。

ただ、作品だけを読むと、情景は夏、船上にたまたま蛍がいた(携行していた)というよりは、「大晦日」のような印象を強く受けます(私が「紅白」の藤山一郎先生の指揮のイメージをいまだに強く有しているためかも知れませんが)。

また、事実関係よりも重要なのは短歌作品としての味わいですから、その意味で、一首の独立性を求めて添削を試みたいと思います。

  

銅鑼烈し蛍の光も鳴り添いて連絡船は北へ出でゆく

 

 

 

2017.6.24                                           作者:中溝幸夫

    朝まだき昏き谷から空見上げ星々の中にあの星をさがす

 

とても魅力的な情景です。おそらく夜明け前の「昏き谷」から空を見上げる作者が、ま

だうすれることのない満点の星々の中に、一等星の名を持つのか、あるいは何か特別な思いのある星を、さがしておられるのでしょう。もしかすると、空気のきれいな山(谷)から見る星空は、星が多すぎて、いわゆる星座などの既知の形の通りには見えないのだろうか、などと、想像が広がります。

 

歌としては、字余りのさばき方に工夫が必要でしょうか。以前、何が何でも五・七・五・七・七の定型におさめるばかりでなく、時にはそれを壊して破調(字余り)に挑戦することも必要だ、と述べました。ずっと挑戦して下さっていることは、率直に言って嬉しいのですが、字余りは「音韻」との関係で、場所と用語によってうまく行く場合とそうでない場合とが、はっきり分かれます。そのことを詳しくお話しする前に、まずは添削案をお示ししたいと思います。

 

あの星はいづこにあらむ朝まだき満天の星を谷より見上ぐ

 

原歌の下句は、残念ながら最後が間延びしてしまうような弱さがあります。四句、五句

ともに字余りであることも、その一因でしょう。また、情景から行動までがストレートすぎるので、よけいに字余りが気になる結果になってしまっています。

 そこで、「あの星はいづこにあらむ」と二句切れにすることで、一度読者の視点を天空に引きつけます。その上で情景を描写し、それを見上げる作者というところへ視線を引き下ろすことで、遠→近または巨→微という構成を、盛り込みました。なお「昏き」谷、はおっしゃりたいところと思いましたが、「朝まだき」に「満天の星」を見ることから、意は通ると考え、割愛しました。

なお、字余りについては三首目のあとにお話し致します。

 

 

 ②  うす紅のミヤマキリシマ花もよう淡きから濃きへ山染まりゆく

 

これも①で申した通り、字余りをどこに置くか、そのため前後の言葉運びをどうするか、

という点に、鍵となるものがありそうです。とくにミヤマキリシマが「山を染めゆく」とした方が、焦点が絞りやすいと思われます。四句と五句を入れ換え、かつ四句のあとを一字アケとすることで、字余りを「生かす」ことができそうです。

 

  うす紅のミヤマキリシマ花もよう山を染めゆく 淡きから濃きへ

 

  なお、「音韻」のすわりからすると「濃きから淡きへ」の方が良いのですが、それでは歌意が大きく損なわれるため、「淡きから濃きへ」は原形のままとしました。「濃きから淡きへ」なら一字アケは不要ですが、「淡きから濃きへ」の場合は一字アケですべてが生きる点、字余りと「音韻」の関係として、比較してみて下さい。

 

 

③ 国東の山懐に抱かれし熊野摩崖の仏を訪ふて

 

熊野の磨崖仏は、まだ行ったことがありませんが、あこがれの地、石仏であり、一度は

訪ねてみたいと思っております。ヒマラヤをはじめ、各地の題材を詠みこんで私どもに見せて下さる作者の作品を拝見するのが楽しみです。

  さて、添削・批評に入ります。原歌は2か所、改めた方が良いかと思われるところがあります。いずれも下句で、「熊野磨崖の仏」の固有名詞と、「訪ふて」のおさめ方です。

  固有名詞に関しては、作者が書かれているのですから、このような言い方もありうるのかと考えましたが、Webなど手もとで確認できる限りでは(ずっと以前からの私の固有の知識も含め)、「熊野磨崖仏」と言うのが通称のようであり、「の」を差しはさむとすれば、「熊野の磨崖仏」が妥当なところではないでしょうか。

  これは「熊野磨崖の仏(この場合は、ほとけ、と読む意と受け取っています)」という言い方が存立するか否かではなく、作品を読んだ読者が違和感なく受け入れ、歌全体をどのように評価するか、という点からの指摘です。

  また「訪ふて」という末尾ですが、「・・・て」と接続助詞の「て」で終える詠み方は、印象が散漫になり、余韻・余剰を生むのでなく、焦点の絞り切れない、弱い読後感を生じさせてしまいます(大半の作品がこのように評価され、大半の批評者が同様に指摘します)。

せっかく「訪ふ(とふ)」という古語を用いておられますから、ここはもう一歩「訪ふ(おとなふ)」まで、すすめてみてはいかがでしょう。そうすることで、「て」は不要となり、終止形でぴたりとおさめられるようになります。

 

国東の山懐に抱かれし熊野の摩崖仏を訪(おとな)ふ

 

補足してご説明しますが、ここでは句割れ・句またがりという手法を用いています。下句が「くまのの/まがいぶつを/おとなふ」という四音・六音・四音の組み合わせになっています。これも音韻、言葉運びによって良しあしが分かれるため、簡単ではない破調の一種ですが、字余りと合わせ、うまく使うと表現の幅がぐっと広がります。

 

また、字余りについて、改めてお話し致します。以前にも引いた自作を例にして恐縮ですが、ちょうど使いやすいのでご容赦下さい。

 

かつてわれのすべてが在りし駅の跡にしろじろとアメリカ花みづき咲く

 

初句は「かつて・われの」と三音・三音になっています。言葉にもよりますが、初句 

 の三・三または五・一は、落ち着きやすいです。「かつて」の「つ」は、会話などでは「かって」と言われることもあり、半拍に近い感触があります。「五拍半」に近いと言えます。

  三句はやはり「駅の・跡に」と、三・三にしています。こちらは六拍ですが、初句と呼応させていること、二句が流れの良い四・三であることから、つり合うものとして制作しました。

  下句がより大きな破調です。四句が九音の字余りか、しかし「アメリカ花みづき」は一語ですから、「句割れ・句またがり」であるとも言えます。じつはこの破調を吸収するために、上句をあえて先述した通りのつり合いの破調にしているのであり、「アメリカハナミズキ」という固有名詞の語調とも相俟って、全体のバランスが取れているようです。

 

  「初句」につづいて言うと、三句の六音も、わりとおさまりやすいものです。ただこの場合も、三・三や五・一がよさそうだと、経験的には言えます。また促音「っ」(旧かな表記では「つ」)、撥音「ん」は、一拍ではなく半拍なので、文字の上では六音、八音でも、五拍半、七拍半となり、一般的におさまりやすくなります。

  またなぜか、外来語カタカナ表記の言葉にも、字余りを気にさせないものが多くあるように思います。こちらはあまりつきつめて研究していませんが、たとえば「like」は「ら・い・く」という三拍ではないということなどが、関係しているかも知れません。

 

  以上、最後は字余りと句割れ・句またがりについて、ご参考までにお話ししました。今後のお役に立てば幸いです。

 

 

2017.5.9                                             作者:佐東亜阿介

・好物を隠そうと犬土を掘るいくらも掘れぬ前足の爪(NHK短歌兼題「隠す」)

 

 原歌には、二ヶ所、惜しいところがあります。一つは「いぬつちをほる」と、主語の「犬」と目的語の「土」が連続している点、二つめは、それが漢字で続いている点です。そこを解決すれば、生き物への愛情の感じられる、良い歌になるでしょう。

 

 以下、問題点を解決しながら、順に添削案をお示しします。

 

 好物を隠そうと犬は土を掘るいくらも掘れぬ前足の爪

  まず、助詞「は」を挿入することで、問題を解決しました。ただし、いま少しひねり  

  がほしいところです。そこで、次の案を考えました。

                 ↓

好物を隠そうと犬は土掘れどいくらも掘れぬ前足の爪

「掘れど」と、逆接を加えてみました。因果関係は明確になりますが、今度はやや説

明的で、原歌の持ち味を殺しそうです。

               ↓

好物を隠そうと土を掘る犬のいくらも掘れぬ前足の爪

 これで、二句は字余りになりますが、説明的な作為がなく、原歌の持ち味通り、犬の  

 爪への嘱目で、愛情を秘めた歌になると考えます。いかがでしょうか。

 

 

初物と言っておほほと笑う母つい先日も食べたばかりを(NHK短歌兼題「初」)

 

 「を」は接続助詞であることが多いのですが、逆接的な意を持つ終助詞でもあります(この場合、「食べたばかり」なのに、の意です)。原歌では、そのように「を」が受けとめられます。

 もしそうでない(「ばかり」のあとに何か名詞が省略されている)ならば、次のような添削が妥当です。

 

初物と言っておほほと笑う母つい先日も食べた林檎を

 

 また、逆接なのだとしても、何か「食べた」ものを示す固有名詞が詠みこまれている方が、読者も理解しやすいでしょう。

 

 

上京の独り居に母訪ね来る片付けられし部屋の広さよ(NHK短歌「部屋」)

 

原歌のままで、「『母が来て部屋を片付けてくれたら、部屋が広く感じられた』という意」は、読みとれない訳ではありません。が、一首目、二首目と同じように、ほんのわずかな言葉選びで、大きく印象が変わります。

 

また、歌材はできるだけ整理して、歌意の骨子を伝えられる助動詞、助詞の一音、二音のために、一首のキャパシティを振り向けることが重要です。

 

この作品では、「上京」が、作者の気持ちとしては非常に大きな意味を持つものと読みとれるのですが、「歌の完成度、あらわすところ」として考えれば、それを省いても同じ意をこめることはできると考えられます。

 

独り居の部屋の広さよ留守の間に母たずね来て掃除せしあと

(結句は、「片付けしあと」ともできます)

独り居の部屋の広さよ留守の間に母たずね来て片付けしあと

 

 「上京の独り居」という背景は、ある程度読む力のある読者であれば、「ああ、作者は都会に独りで出てきて、お母さんが部屋を掃除してくれたんだな」と、読むものです。添削案では「留守の間」としましたが、読み方の構造だけ受けとめていただければ、推敲していただければ良いと思います。

 

 

 

          

2017.3.31                                               作者:佐東亜阿介

司会者の笑顔が映るその前は本番ですの緊張の声(NHK短歌兼題「本」)

 

 日ごろ、それほどよく見かけるシーンではありませんが、誰しも一度や二度は見たことのあるような気のする、ちょっとなつかしい情景です。「司会者の笑顔が映る」わけですから、スタジオではなく、TVの画面(映像)なのだと思われます。具体的にはどのような場面なのでしょうか。

 

 この「具体的な場面」が、読者にあってどのような印象を結ぶのかが、この短歌作品の評価の分かれ目でしょう。読者によっては、大いに共感することもあるでしょうし、逆にさしたる感懐を覚えぬということも、ありそうです。これは、受け手の感じ方の問題によるところが大きいと思いますが、ある程度、作品の側の「仕掛け」、あるいは手練手管(てれんてくだ)で、回避することもできそうです。

 

 あとで少しお話ししますが、「手練手管」と申した通り、それは「技」で目先の批評・批判をかわす、そのたぐいの話であり、作品に大きな疵(きず)があるわけではありません。作者が作品をお寄せ下さるようになった頃に一、二度、五・七・五・七・七にまとめるだけでは「短歌」としての魅力は生まれない、という意味のことをお話ししたと思いますが、その当時と比較すると、格段の進歩が感じられ、この作品は十分「短歌」の味わいを有しています。

 

 「手練手管」について、一応申し添えます。「司会者の」の初句に、だれか固有名詞を盛りこめばいいのです。たとえば字余りですが、「池上氏の」など。もちろんお好きな人の名でかまいません。こうすることで、アクセントが生まれます。ただしあくまで「手練手管」であると同時に、かえってあざとい印象になるかも知れませんので、一応ご参考までに、お話しするのみと致します。添削も、必要ないと思います。

 

 なお、私自身が「本番前です」の言葉からなつかしく思い返したのは、1991年だったと思いますが、NHKが制作した『幾多の丘を越えて 藤山一郎八十歳 青春の丘を越えて』です。今もって私の敬愛する藤山一郎先生が、本番収録前にスタッフとお話しになっている様子が、手もとのビデオテープに残されています。当時私はビデオデッキを持っていなかったのですが、この放送のために急遽、一式買いととのえました。古い、なつかしい思い出を呼び覚まして下さり、ありがとうございました。

 

 

躓かず陛下お守りせんがため和服召される皇后陛下(NHK短歌兼題「つまずく」)

 

 一首の歌としてはよくまとまっていますが、「評価」には、難しいものがあります。おそらくは、皇后陛下が和服をお召しになる理由として、このようなことをお話しになった記事などが、ベースになっているのだとは思いますが・・・。皇后陛下おん自らもわずらわれて久しく、「内容的に」、読者がすっと受け入れることのできない感じのあることが、第一かと思います。

 さらに、文法的にかみ砕くと、三句の「せんがため」に、より大きな問題がありそうです。このままの書き方では、「・・・せんがため」という意志をお持ちの方のお心を、作者が同じ立場で代弁しているような印象を、読者が受けるのではないでしょうか。

 最初に書いた通り、皇后陛下のお言葉をふまえての一首であるとするなら、「『・・・・・』と」、または「『・・・・・』とて」、のような、引用の助詞が必要です。それならば、先述したような違和感を覚えることはないかと思います。ただその場合、とくに「とて」などでは、皇后陛下に対しもっと失礼な印象が生まれてしまいかねず、さらに難しいところです。

 

 このあたりが、「評価は難しい」と申し上げたゆえんです。また、私自身は今上陛下、皇后陛下を深くお慕い申し上げる立場から、以上の見解をお伝えして来ましたが、現代文学、現代短歌として(あるいは万葉、古今の昔においても)、「陛下」と直接詠みこむことが適切であるかどうかにつきましても、一考の余地があろうかと思います。

 

 作者が皇后陛下をお詠みになったご心情は、私も深く受けとめ、共感を覚えました。上記は「短歌作品の評価」としての見解です。一応、「引用」の体裁を盛りこんだ添削案を、お示しします。「せん」にあわせて「召さるる」としました。

 

 躓かず陛下お守りせんためと和服召さるる皇后陛下

 

 

別れるといつも言いつつ添い遂げた子には解らぬ妣の情愛(NHK短歌「別れる」)

 

 大変味わいのある作品です。「別れる」と言い続けながら、最後まで添い遂げられたお母様の「情愛」は、ある時は子どもたちに向けるものの割合が大きかったかも知れませんが、やはり「添い遂げる」までには、お父様への深い思いが、お有りだったのでしょう。たしかにそれは、「子には解らぬ」ものであると思います。

 短歌作品の完成度として、言葉の入れ替えを要する部分はありません。この一首の志すところとしては、これで正解、と言ってもいいように思われます。

ただ、ひとつ気になるところは、「妣(はは)」という用字が、どこまで一般読者に伝わるだろうか、という点です。歌壇では、池田はるみという歌人が、『妣の国 大阪』という歌集を刊行し、ながらみ短歌賞(1998年)を受賞したので、わりとなじみのある漢字です。また漢和辞典をひもとけば、他界した「はは」=「妣」、在世の「はは」=「母」という使い分けも、すぐにわかるでしょう。

しかし「多くの読者」は、そこまでしてくれないのが普通です。そのため「妣」の読みにくさから、すっと読み過ごされる、さらには誤読されかねない、という疑念が、頭をよぎります。NHK短歌の選者、もしくは下読み担当は?とも、思ってしまいます(余談ですみません。もし選外だったのなら、可能性があるかと思ってしまいました。それぐらい、この作品は一首の短歌として、よく詠まれています。ただし、一首の眼目をどこに置くか、あるいは屈折などを用いて訴求点をどこに絞りこむか、という点で、さらなる向上の余地がないわけではありません。しかし私は、この一首を高く評価する立場です)。

以上を総合して、結論をお伝えします。私ども「芽吹く言の葉」「美し言の葉」のWeb表記では、ルビがカッコ書きになってしまい、申し訳ない限りなのですが、それでも「妣」には、「はは」のルビを添えるのが、適切だろうと考えます。

 

 

別れるといつも言いつつ添い遂げた子には解らぬ妣(はは)の情愛

2016.2.16           作者:中溝幸夫

    ヒマラヤの山村に棲む老いた女(ひと)石運びしがわれの仕事と

 

この歌は、鑑賞、添削を試みる上で、いくつか気になるポイントがあると感じました。

 

.「老いた女(ひと)」はかつて「石を運んだ」のか。今も運んでいるのか。

イ.前にもお伝えしましたが、「女(ひと)」のルビ表記の是非。

ウ.「石運びしがわれの仕事と」に対し「言う」という意味の動詞がないと、すわりが悪い。

 

 ア.については、中溝様の作品ですから間違いはないと思いますが、その点についてもウ.の動詞の有無で、印象が大きく変わります。そして、かつて石を運んだことを、いま口にしているのなら、次の添削案が良いかと思います。

 

ヒマラヤの老女はひそとつぶやきぬ石運びしがわれの仕事と   ※ぬ=完了

 

 また、今も石を運んでいるのなら、次のようになります。

 

ヒマラヤの老女はひそとつぶやけり石運ぶのがわれの仕事と   ※り=存続

 

※完了の「ぬ」、存続の「り」の違いから、過去と現在の違いを込めています。もちろん、「つぶやく」についての完了、存続ですが、語感の伝えるものがありうるという意味です。

 

 イ.について、中溝様のご意志としては、二首目に「老女」があることと、「石を運んだ(運んでいる)老女」に対しての思いから、「老いた女(ひと)」と書かれたのだとは、推察しております。しかしながら、書かれている「言葉」から、読者がどのようなイメージを受けとるか、そこのところに、作者は最大限の意を払うべきだということが、歌人として、また「美し言の葉」・「芽吹く言の葉」運営者として、私の申し上げるべきところと考えます。

 

 むろんその上でなお、「老いた女(ひと)」という表現を用いたいという作者の意志を否定することは、私どもの姿勢としてはありません。あくまでも、ご自身がお書きになった言葉が、読者にどのように受けとられるか、そしてその段階で作者ご自身の真意がどのように読者に手渡されるか、そのことをお考えいただく助言として、この添削と批評をお送りしている次第です。

 

 前回の大河=ガンジス川のことなども、私自身は「はるかな山の高みの源流から、インド洋へと流れて行く、世界有数の大河に数えられるガンジス川」の意を読みとりましたが、山の情景をイメージしている一般の読者に、「大河」の語を一首の中であわせて提示することは、誤解・誤読をまねく危険がある、という懸念から、ご指摘したものです。あらためて、ご参考になれば幸いです。

 

    食べた店の老女は別れ際マリーゴールドの花手渡しぬ

 

この歌も前作同様に2点、まず指摘を致します。。

 

.「食べた店」では、もちろん意味は伝わるが、表現としては疑義が大きい。字足らずも解消したい。

イ.やはり助詞を整えるべき。マリーゴールドの花「を」手渡す、とした方が良い。

 

 以上の理由から、以下の添削案をお示し致します。初句は「食事せし」がもっともシンプルと思われますし、「花」を省くことで、手渡して「くれ」た意も、込めることができます。

 

食事せし店の老女は別れ際マリーゴールドを手渡しくれぬ

 

 

    雲が湧き霧が流れてランタンの谷埋め尽くし白き峰消ゆ

 

私などには想像もつきかねますが、あるタイミングでとつぜんヒマラヤの高い空に雲が

湧き立ち、ただちに霧も流れて来て、ランタンの谷を埋め尽くす。そして登山者たちの視界から、みるみるうちに真白き高峰も消えさってしまう、こんな情景でしょうか。

 

 じつは添削が一番難しかった作品なのですが、それは、「雲」と「霧」の動きがはじまったところから、「白き峰」が消えるところまで、切れ間がなく、かつ三句の「ランタン」以外、すべての単語が3音以内であることから、初句から結句まで一気に流れてしまうところに、惜しいものがありました。

 

 添削の結論としては、「初句切れ」にしました。二句以降の助詞や微細な表現に小細工を加えるよりも、この「初句切れ」以外すべてを生かすことで、作者の思いが十分に表現できるのではないかと考えます。変に他の部分に手を加えると、結句の「白き峰消ゆ」を生かすことができません。

 

 

雲湧きぬ霧も流れてランタンの谷埋め尽くし白き峰消ゆ

2016.2.3                                                        作者:佐東亜阿介

野ざらしのみほとけ並ぶ山寺や妻空蝉を撮して登る

 

 魅力のある歌ですが、疑問が一点と、改めたい流れがひとつあります。まず、「疑問」についてご説明します。

 

 それは「空蝉」の語義についてです。「空蝉」は、『広辞苑』第四版によれば、「①蝉の抜け殻。②そこから転じて、蝉そのもの。③魂が抜けた虚脱状態の身。」とあります(一部、小田原が補足修正)。そこで、「空蝉を撮」すとは、どのような情景なのかということが、まず読者の胸にきざしてしまう、これが「疑問」です。

 

 もちろん、改めて読み返せば、「野ざらしのみほとけ並ぶ山寺」で、「妻」が、蝉の抜け殻を撮影して(携帯電話ででしょうか)、さらに上へ登った、というスケッチなのだろうと想定できます。

 

 ただ、「野ざらしのみほとけ」の生み出す印象と、「空蝉」の語が持つ③の感覚が、読者の脳裏で瞬時に結びつく、こうした「言葉の力」も、知っておいていただきたいと思います。

 

 また「流れ」については、二句の後半「並ぶ」をつきつめれば俳句の傑作となりそうな、語調も内容も整った上句に対し、下句は、「妻」と「空蝉を」の間に助詞がなく(漢字が続く点でも忙しい感があります)、さらに「撮して登る」というふうに、結句の中に動詞が二つ盛られている点でも、せわしい、落ち着かない印象を受けてしまいます。

 

 そこで添削案では、「妻」が(抜け殻であろう)「空蝉」を「撮せり」とした動作で完了させ、二句切れとしました。また「流れ」のところで指摘した二つの動作のうち「登る」を省きます。ここでわずかに字数の余裕が生じますが、そこへあえて「秋」を持ちこみ、体言止めにしてみました。

 

 「山寺」が芭蕉の詠んだあの山寺で(私も大好きです)、「空蝉」となれば、季節は晩夏、初秋であると決まっていますが、そのあたりを自明のこととしながら、結句を「秋」とすることで、「山寺」が普通名詞的な「山の寺」でなく、あの「山寺」であると明言できる、そんな効果を考えました。

 

空蝉を妻は撮せり野ざらしのみほとけ並ぶ山寺の秋

 

 

少しだけならいいからと誘う声負けてはならぬダイエットの身

 

 「いいからと誘う」声の主は、やはり奥様でしょうか。「いいから」という語調で、そう感じました。その誘惑(誘う声)に負けてはならないと我慢される作者のお気持ち、一首の「短歌」としても、よくまとまっています。

 

 ただ、原歌のままでは、三句切れであろうとは思われながらも、一首全体がさらりと流れすぎる感が否めません。そこで三句・四句切れとなるリスクを承知の上で、四・五句を入れ替え、さらに四句で「ぞ」(ここで切ります)、結句で「じ」(打消の意志)と、意味としても語感としても強い助詞・助動詞を使いました。

 

 少しだけならいいからと誘う声ダイエットの身ぞ負けてはならじ

 

 

弟の癒えぬ傷痕見る度に後悔募る過ちの過去

 

 過去、弟さんに、何かのはずみで傷を与えてしまった、その傷が、今も弟さんの身体に残っているのでしょうか。「傷」は身体とは限らず、精神に与えることもありうると思いましたが、「癒えぬ傷痕」をいま「見る」のですから、やはり身体的な、何かの「過ち」によるものだったのでしょう。

 

 添削としては、漢字の使い方と、下句(四句・結句)がばらばらになっている点を修正すれば、よい歌になると考えます。

 

 前者(漢字)は、特に二句から四句の「癒えぬ傷痕見る度に後悔募る」の部分が気になりました。ここでは、「度」を「たび」とするだけで、大きく印象が変わります。

 

 また下句は、「後悔募る」で四句切れかと読める後に、「過ちの過去」と、同じ印象の結句が投げ出されるため、寸断された感を受けます(「募る」は「過去」にかかっているようにも読めます)。ここは確実に四句切れとして、倒置法も用い、以下の二案でいかがでしょうか。

 

  弟の癒えぬ傷痕見るたびに募りくるなり消しえぬ悔いが

 

弟の癒えぬ傷痕見るたびにかえり来るなりあの日の悔いが

 

より原意に近い意味では、もう一例、考えられそうです。次の例では、四句ははっきり結句の修飾節となっているため、「切れてしまう」感じがないのです。

 

 

 弟の癒えぬ傷痕見るたびによみがえり来る過ちの過去

2016.12.31            作者:佐東亜阿介         

    サラダだけ食べて減量志す我慢の割に減らぬ体重

 

健康のために減量を志し、しかしなかなか思うようには効果があらわれない。中高年の

読者には、大いに共感できる歌材でしょう。

 以前にもお伝えしたことがあるかと思いますが、「五・七・五・七・七」の短歌のリズムは、日本文学の原型とも言うべき、長い歴史とそれゆえの強い力を持った詩形ですが、だからこそかえって、どの言葉を用いるか、それをどのようにつなげるか、によって、時としてリズムが良すぎて、迫真性がうまく伝わらない(意図は伝わるけれども、逆に伝わりすぎて、「詩」としての感動が、薄れてしまう)ことがあります。

 それをふせぐためには、内容や音韻(しらべ、リズム、語感を総合したもの)で、ところどころに屈折を持たせる、言葉をあえてずらしてやる、ということが求められます。

 

  減量を図りてサラダだけを喰うされどおさおさ減らぬ体重

 

  「おさおさ」は旧かなでは「をさをさ」で、打消しの表現の場合には「少しも」「ほとんど」の意になります。言葉がなじまないと感じられたり、「少しは減っているが、なかなか思うようにいかない」という感じでしたら、ずばり口語で「されどなかなか減らぬ体重」でもいいと思います。

 

 

    自分には何が何だかわからないみんなは読める空気なるもの

 

いわゆる「KY=空気が読めない(読める)」の「空気」のことですね。これは「事実」

と「虚構」の、いずれに近いのでしょうか。作者ご自身のストレートな思いであるのか、ある人物を虚構の主人公にして詠まれたのか。このような「読み」の展開も、先般の掲示板でのやりとりから、ふくらんできましたね。

 そして、「事実」「虚構」のどちらであっても、わずかな言葉の選別で、一首の歌は大きく面影を変え、味わいを変えるものだということを、次の添削でお示しできていればうれしいです。「自分」を「わたし」、「みんなは」を「皆には」と置き換えることで、歌の表情がかなり変わると思います。いかがでしょうか。

 

  わたしには何が何だかわからない皆には読める空気なるもの

 

 

    人間が踏みしめた日もある地面水も空気もない月の海

 

私はいわゆる「趣味」らしいものがなく、強いて言えばコミックを読むことが、それら

しい唯一のものであります。余談ではありますが、先日『ビッグコミック』の『ゴルゴ13』で、アームストロング船長が「月面着陸は嘘だった」という言葉を残したという話を読み、「そのようなフィクションも生み出される時代になったのか」と驚きました(作中で、詐欺、偽造として語られたもので、作品自体がそう断じたものではありません。ご存じでしたら余計な説明で、すみません)。

 さて、一首目でも言いましたが、短歌の五七五七七のリズムは、語調が良いので、作者がはじめに想起した言葉のままでは、「調子が良すぎる」場合があり、そこをどのようにインパクトのある作品にしていくか、ということを、添削を通じてご説明したいと思います。

              

  月のうみ水も空気もなかりしがアポロは行きぬあの日たしかに

(月のうみ水も空気もなかりしがアポロ行きしをわれは忘れず)

 

 月のうみ水も空気もなかりしをかつて彼らは踏みしめにけり

 

  作者の原歌は、「月の地面」の方に焦点があると読めますので、一案よりは二案の方が、より近いかも知れません。俳句にくらべ七七の十四音ぶん多い短歌は、ひとつの素材(「月の海」)に対して、別の素材(一案では「われ」またはその視点。二案では、アポロの搭乗員たちである「彼ら」)を合わせることで、流れや見どころを作ることができる例でもあります。

 

 

 

2016.12.21                                                          作者:中溝幸夫

 

    ヒマラヤの峰と峰とに挟まれて大河は流れやがては海へ

 

 

 まず「疑問」ですが、不勉強ながら「大河」はガンジス川か、それに近い規模の大河川なのでしょうか。そして、その「大河」は、ヒマラヤにおいても「大河の様相を見せているのだろうか」というのが、「疑問」点であります。もちろん日本の川とは異なるのでしょうから、事実そうなのであれば、「それを知らない日本の読者に対する配慮」として、歌における「表現」を、磨いていただければと思います。

 

 そして「言葉運び」については、下句の表現です。「大河は流れ」「やがては」海へ、のままでは、読者の焦点をひきつけるポイントがなく、全体が流れてしまいます。四句切れで一度切り、さらに作者はよくご存じのことであっても、「大河」の行く先がどこであるか不分明な形にした方が、作品としての広がりが生まれると思います。

 

ヒマラヤの峰と峰とに挟まれて大河は流るいづこの海へ

 

 

    ネパールは国貧しけれどヒマラヤのふもとの民の笑顔やさしき

 

ネパールの人々が心豊かに暮らしているようだということは、私も聞き知っており、歌

 意にはうなずけるものがあります。この作品も、一首目と同様の指摘をさせていただきます。

  まず、ネパールは、実際にヒマラヤの高峰に登られる作者にとっては、まさしく「ふもと」なのだと理解できますが、私どもを含め多くの日本の読者にとっては、ネパールの地そのものが、たいへんな「高地」の印象があります。これは「語感」の問題であり、「ふもと」と「ネパール」が、読者の感覚の上で(事実か否かではなく)うまく咀嚼できないのです。この点は、「ふもと」という語を用いないことで、回避できましょう。

  いま一点は、言葉の用い方であり、「国貧しけれど」の二句八音についてです。このくらいの逆説なら、副助詞「も」を使うことで、七音の定型に収めることができます。以下の添削案の通りです。

 

ネパールは国貧しくもヒマラヤに生れたる民の笑顔やさしき

 

 

    ヒマラヤの貧しき村に夜が明けて七千メートルの白き峰聳ゆ

 

この作品は、とてもよく仕上がっていると思います。二点だけ添削しました。まず三句

の「夜が明けて」についてです。格助詞「が」と、係助詞(口語では副助詞)「は」の違いなのですが、格助詞「が」は、通常の「〇○」が「△△」した、という、主語・述語の関係を示します。対して係助詞または副助詞は、「ある特別な意味や感触」を添えるものです。そしてこの歌では、結句の「白き峰聳ゆ」の「峰」と「聳ゆ」の間に「が」が省略されていますから、「夜が明けたために、聳えている白い峰が際立って浮かび上がった」意をあらわす「夜は明けて」を提示した次第です。ただ、微細な感覚のところであり、絶対的にこうでなければいけない、というものではありません。また、下句の字余りを吸収するために、「は」の強さが生きる面もあります。

 いま一つは、二句の「貧しき」を「乏しき」とした点です。ヒマラヤの歌では多く「貧し(き)」と書かれていますから、やはりそれがご実感なのだろうと受けとめておりますが、すこし言葉づかいをやわらげることで、歌に「含み」が出ることの例として、お示しするものです。

 

 

ヒマラヤの乏しき村に夜は明けて七千メートルの白き峰聳ゆ

 

 

 

2016.12                                                                    作者:佐東亜阿介

・感情のまま子を叱る吾を目でたしなめるごと見詰める吾が子

 

  歌意はとても良いと思います。作者は感情にまかせてお子さんを叱り、お子さんがそ

れを見抜いたかのごとく、たしなめるように見詰めてくる。どきりとする中で、親子のありようや、お子さんへの愛情の再確認を求められた、そんな一コマでしょうか。

  表現の上では、すこし整理が必要です。

  まず、上句は「子の視点」ですから、「父われを」とします。いっぽう、下句は「吾(父)

の視点」なので、「目で」ではなく「たしなめるごと見詰める吾が子」で十分でしょう。

また「父」と「目で」の二音を差し替えるのだとも考えられます。

 

感情のまま叱りいる父われをたしなめるごと見詰める吾が子

 

 

・上京の決意をボートにて話す揺れるロケット黙り込む君

 

  読者が幾通りにも想像をふくらませることのできる、魅力的な歌です。一首の言葉運びに難があり、作者の言わんとしていることはおぼろげに想像できても、何を伝えようとしているのか、書かれている言葉のせいで、「ああも読めれば、こうも読める」という場合は、まだ推敲の余地が多くある歌であります。

  しかしこの歌は、そうした意味で幾通りにも読めてしまう、ということでなく、明快にある場面が読み取れて、それははたしてどのような状況なのか、という面で、読者の想像が広がるので、とてもいいと思います。

 

  端的に例を挙げると、以下の通りです。

 

    作者が恋人に、「決意」を話す。「君」の胸でロケットが揺れ、「君」は黙り込む。

    恋人が作者に、「決意」を話す。以下、①と同。「思い」は逆になりますね。

    「恋人」ではなく、若い友人、あるいは子どもが「決意」をあらわす。「ロケット」がむずかしくなりますが、こんにち、いろいろなケースがあることでしょう。

 

三例のみ、挙げてみました。添削は必要ないと思います。「揺れるロケット」と「黙り込む君」が、完全な対句または並立の関係ではないにもかかわらずそのように置かれている点だけ、少し気にはなるのですが、かと言ってたとえば、下句を「ロケット揺れて黙り込む君」という定型的なおさめ方にするよりも、原歌のあり方でよいと思うからです。

 

 

・虐待の跡ではないが吾子の痣尻が動けば伸び縮む青

 

  一転して、深く、重いものを暗示する作品です。お子さんのお尻に青痣があり(不勉強ですが、いわゆる「蒙古斑」のようなものでしょうか)、お尻が動くとその痣の青色が伸び縮みする、という下句の観察は、よくできています。

気になるのは「虐待の跡ではないが」という一・二句です。すなわち「蒙古斑」ではなく、もちろん虐待でもないけれどゆえあって叩くなどした痕跡なのか、もしくはほかに理由のある青痣なのか。いずれにせよ、この一・二句を書く必然性が作者にあるわけですから、そこにはやはり、語るべき何かが秘められているのでしょう。

ただ作品上、そこを明らかにする必要はありません。このままで十分、読みごたえのある作品です。ただ、軽い文語脈を差し込むことでかなり手ざわりが変わることもありますので、その意味で一例、添削を挙げておきます。

 

虐待の跡ならねども吾子の痣尻が動けば伸び縮む青

 

 

 

 

 

2016.11                 作者:中溝幸夫    

ヒマラヤの峰の高みの雪見れば悠久の時間(とき)流れしを問ふ

 

 三首全体を読むと、作者ご自身の「ヒマラヤ登山」の体験が下敷きにあるのではなく、映像でそれを目にして読まれた歌だろうかという印象が強いです。

 

 しかしこの一首は、「もしかしたら以前、ヒマラヤに登られたことがあるのかも知れない」と読者に思わせるものがあります。もちろん「悠久」という言葉から考えれば、一人の人の経験的な過去の時間の長さによるものではないかとも、思われますが。

 作品の上では「経験的事実」「虚構」のいずれであっても、結句の「問ふ」が気にかかります。「問ふ」という用語自体がこの歌の内容にまったくそぐわないのではなく、このような「問ふ」のあり方も、あり得るとは思いますが、やはりここの意は「思う(ふ)」ではないかと、私は感じました。

 あるいは結句の八音を回避するために、「思ふ」ではなく「問ふ」とされたのでしょうか。だとすれば、古語では「思ふ」は「思(も)ふ」とも読みますので、「ながれしをもふ」という七音もあり得ることを、お伝えします。その際、「()ふ」「思(も)ふ」とルビを入れるかどうかは、悩ましいどころです(特にWeb上ではルビがカッコになりますので)。

 ただ、このような場合にルビが不要であることの良い例として、ひとつの寓話をお話ししたいと思います。私は『短歌人』の歌会の席で又聞きしたにすぎないのですが、平成24年に亡くなられた歌人の安永蕗子さんが、かつてある歌会で、同じようにルビの有無で二通りに読めるご自分の作品について「ここは何と読むのでしょうか」と聞かれた際、「ねえあなた、どっちでも好きなように読んでいただこうじゃありませんか」と、おっしゃったというのです。「達人の言葉」とはいえ、「ながれしをもふ」と読まれても、「ながれしをおもふ」と読まれても、ここではさしつかえないと、私は考えます。古語の読みに習熟している読者ならおのずと「もふ」と読みますし、「おもふ」と読まれて八音でも、ほとんど問題はないからです。

 もちろんちがう理由で「問ふ」に深い意味がある場合は、「問ふ」のままで良いでしょう。また「美し言の葉」では、原則としては「時間(とき)」のような読ませ方には賛同しない姿勢ですが、ヒマラヤの悠久の時間ともなれば、許容できるかとも思います。以上を集約して、添削案を二案、作りました。

 

ヒマラヤの峰の高みの雪を見つはるかな時の流れしを思ふ

 

ヒマラヤの峰の高みの雪を見つ悠久の時間(とき)流れしを思ふ

 

 いずれも、三句を「雪を見つ」とすることで、かっちり三句切れにしています。第一案が、「実体験に基づく」場合で、以前に登った時から「はるかな時」が過ぎたという内容です。第二案は、虚構すなわち映像などでヒマラヤを見ている場合のもので、こちらでは四句をそのまま生かしました。まだいろいろ、言葉の動かし方があると思われますので、ご検討下さい。

 

 

雲動き上弦の月煌々とヒマラヤの谷の貧村照らす

 

 この歌を読んだ読者が、最初に気にかかるのは、二句から三句の「上弦の月煌々と」でしょうか。上弦の月、つまり半月が「煌々と」村を照らしているイメージが、日本の汚れた大気の中、特に都会で生活している者の感覚では、ちょっと「おや?」というとらえ方になってしまう可能性があると思います。

 が、そこはヒマラヤなればこそ、実景として、上弦の月がそのように村を照らしているのでしょう。先に述べた懸念材料からすると、「上弦の」を伏せる手段もあるのですが、「ヒマラヤ」の歌であることが主眼ですから、この点は添削対象ではなく、ひとつの「指摘」にとどめておきます。

 添削的な問題があるとすれば、初句と結句です。初句は、用字の問題(漢字と仮名)と、「流れ」ではいけないのかという点。結句は、本来、貧村「を」照らすとなるべきところの「を」が省略されており、「ひん・そん・てらす」という音感になってしまっている点です。いずれも決定的な瑕ではないのですが、これらを勘案し、「動き」と「流れ」で二案作りました。

 

雲うごき上弦の月が煌々と照らすヒマラヤの谷の貧村

 

雲ながれ上弦の月が煌々と照らすヒマラヤの谷の貧村

 

 二ヶ所が字余りになりますが、バランスがとれている限りにおいて、字余りが字余りを補正し合う効果があり、この場合は「是」と考えています。「貧村」を体言止めにすることでも、情景を生かす力を持たせることができると思います。

 

 

ヒマラヤの貧しき村の軒先にマリーゴールド咲き乱れをり

 

三首の中でもっとも「点景」を詠った作品ですが、もっともよく整っています。この歌は、添削の必要はないでしょう。

植物の詳細には疎いのですが、マリーゴールドはヒマラヤのような高地にも、咲いているのですね。日本でもなじみのあるマリーゴールドが、ヒマラヤの「貧しい村」の「軒先」に「咲き乱れ」ていることが、歌として読者をひきつける力を生んでいるようです。

 

 

 

2016.10.9                                              作者:佐東亜阿介

幼子の命を守る「たすけっこ」雪の野原で試し吹きする

 

 とても良い作品だと思います。ただ注意点をあげると、「説明のしすぎ」は避けるべきだが、「読者に真意が伝わらない」のもまた、失点となる、この歌の場合だと「もったいない」点になる、ということがあります。

 たとえば我々は、「たすけっこ」が、子どもが緊急時に危難を知らせる呼び笛か何かであり、それを作者が「雪の野原」で試しに吹いているのだと、一読して読みとりました。しかし読者の中には、これだけでは何のことかよくわからない、というように、(心ない)批評をする人も必ずいます。そこまで考えて、一首を仕上げたいのです。

 さて、「たすけっこ」とは、全国的に小学生が持たされている「防犯ブザー」のようなものでしょうか。あるいはそれこそ「雪の野原」など野外で、急を知らせる笛のようなものでしょうか。後者の方がより北国、雪国らしく、「雪の野原」も生きて来ますが、いずれにしてもひとつ、手がかりになる材料を盛りこむことで、確とはわからぬものの読者がイメージを持つことができ、歌の世界も広がります。とりあえず「呼子(よぶこ)」で二例、添削しておきますので、実情に即したものを、お考えになってみて下さい。

 

  幼子を守る呼子の「たすけっこ」雪の野原で試し吹きする

  幼子を守る呼子よ「たすけっこ」雪の野原で試し吹きする

 

 

野仏の貌は風雨に薄れけり参る老婆の手の皺深く

 

 これもまた、とてもいい味わいの歌ですが、三句の「けり」が気になります。というのは、「けり」は過去・詠嘆の助動詞ですが、詠嘆は多く形容詞や助動詞のカリ活用の連用形について「苦しかりけり」「生きたかりけり」などの形をとるため(もしくは、心情をあらわす動詞なども、あるかも知れません)、この形では詠嘆とは考えにくく「過去」となります。しかし野仏の貌は「薄れ」ていまそこに「在る」のであって、それをあらわすにはまず完了・存続の「たり」がありますが、すこし「薄る(薄れる)」との関係が、むずかしそうです。そこで補助動詞としての「おり(旧かなでは をり)」を用いることで、歌意をほぼ万全にあらわしうるかと思います。

 

野仏の貌は風雨に薄れおり参る老婆の手の皺深く

 

 あとは漢字とかなのバランスの点で、「うすれ」「ふかく」をかな表記にしても良いかと思いますので、併記します。お考えになってみて下さい。

 

野仏の貌は風雨にうすれおり参る老婆の手の皺ふかく

 

 

野心ある訳ではないが人生を他者貢献に身をやつしたし

 

 作者らしい「述志の歌」ですね。歌意は良いと思います。ただし「身をやつす」の「やつす」は、「①みすぼらしく様子を変える。②出家して様子を変える。③痩せるほど切に思う。」(『広辞苑』第四版、抜粋)という意味ですから、ここでは少々そぐわない用語です。

これをもっともシンプルに差し替えると「捧ぐ」で、「身を捧げたし」というところですが、これでは作者の本意でもないでしょうし、いわゆる「つきすぎ」になってしまいます。「三句」の「人を」の格助詞「を」との重なりも、解決したいところです。また、「人生」と「身」も、一体のものとも見えます。これらの観点、また「他者貢献」を生かす考えから、

 

  野心ある訳ではないが人生を他者貢献に費やすべかし

 

 「べかし」はかなり特殊な形ですが、「『べかり』の語幹を形容詞シク活用に活用させたもの」で、「当然・相応・義務などの意を表す」ものです。めずらしい言葉ですが、内容としてはこの歌の意をもっとも強くあらわすと考えられます。

 もう少しオーソドックスな言葉運びとして、次の案もお示ししておきます。

 

   野心ある訳ではないが人生を他者貢献に投じてゆかむ

 

 

 

 

2016.9.9              作者:中溝幸夫                                                   

伊那谷は太く明るく広がりて天竜川に朝霧がたつ

 

 作品ベースでないことからお話しして恐縮ですが、私も今年の春、二十年以上の時を隔てて本当に久しぶりに、伊那谷を旅して来ました(飯田線に乗って来ただけですが)。詠まれているのは「太く明るく広がる」状態の伊那谷ですから、飯田以北の情景かと思います。

 登山をされ、その視点を短歌に詠まれる作者の作品として、スケールの大きな良い作品だと思います。このままで、十分に読みごたえのある一首であると受けとめました。

 

ただ私の提案と言いましょうか、「必須」の添削でなく、小田原漂情の言葉の好みでは、次のような案も考えられます。

 

伊那谷は太く明るく広ごりて天竜川に朝霧が立つ

 

作者は必ずしも「文語脈」一本の読みぶりではありませんから、「広がる」でも問題はないのですが、この作については、このスケールの大きさを生かすために、「広ごる」という文語を用いては、いかがでしょうか。さらにその意を生かす意味で、「たつ」は「立つ」と、漢字表記がよりふさわしいかと思います。

 

 

高山の道に残れりハイマツの種子啄んだホシガラスおり

 

この作は、「残れり」、「啄んだ」、「おり」の、時制と活用の整理が必要です。順に指摘します。歌意は、「高山の道に残」っているハイマツの種をついばんだホシガラスがいた(それを作者が見た)ということだと読めます。

 

はじめに、前の3行で歌意を案じた文脈に添って、文法上の注意点を申し上げます。「残れり」はラ行四段活用の動詞「残る」の已然形「残れ」に、完了・存続の助動詞「り」の終止形「り」が接続した形となっています。が、動詞「残る」は明らかに「ハイマツの種子」を修飾していますから、ここでは「残れる」(「り」が連体形となる)で「ハイマツの種子」にかかる必要があります。そして、「啄んだ」を連体形で現在にすれば(種子を啄むホシガラスおり)、今、眼前にホシガラスを見ている描写としては、完結します。

 

高山の道に残れるハイマツの種子を啄むホシガラスおり

 

このように読むのが、大方の読者の見方だと思いますが、あるいは、作者の見たものは、ホシガラスが啄んだハイマツの種子で、過去に啄んだものなのでしょうか?

その場合も時制、活用の整理は必要ですし、ホシガラスで締めるのは、ちょっとむずかしそうです。

 

高山の道に残れりホシガラスが昨夜(よべ)啄みしハイマツの種子

 

このあたりが、落としどころでしょうか。落ちているハイマツの種子から、それを啄んだホシガラスがいた、と作中で述べるより、「種子」に焦点を当ててホシガラスの動きを思わせるというのが、常道だろうかと思います。ただ、言葉の用い方によっては「ホシガラスがいた」ことを歌うこともできるとは思いますので、工夫なさってみて下さい。

 

 

うす暗き樹々のはざまの道辿りモルゲンロートの塩見岳目指す

 

 魅力的な歌です。「モルゲンロート」という言葉は、今回はじめて知りました。「朝焼け」と解説している辞書サイトもありましたが、置きかえることはできませんね。結句を定型七音とするために、「塩見岳指す」とする案もありますが、「指す」では語感が「見えている塩見岳を目標として進む」おもむきになりますので、原形のままで良いでしょう(おそらく、視界がひらけたところで、「モルゲンロートの塩見岳」が目に入る、それをはげみに歩をすすめるのだろうと読みとれますので)。添削の要もないかと思われます。

 ただ「用語」と「読者」との関係において、次のことは念頭に置いていただきたいと思います。それは、良きにつけ悪しきにつけ、「モルゲンロート」が一首の評価を決めるということです。「モルゲンロート」の意味と感覚が理解できてこそ、初句・二句の「うす暗き樹々のはざまの」が生きて来ます。今日の世ですから、ネット検索ですぐその意味はわかりましたが(辞書サイトに朝焼けの山の映像もありました、すみません)、十五年、二十年前ならば、「モルゲンロート」という言葉を知っている読者がその場にいるかどうかで、評価が大きく分かれただろうと思われます。辞書を繰りながら、「この言葉はどういう意味、味わいのものだろう」と語り合った歌会のシーンを、思い出します。

 

 もちろん私は、「モルゲンロート」の意に共鳴し、御作を高く評価します。ただ、長いスパンで作品の良しあしを語る際に、用語の通用性をも考慮するということをお含みいただいて、今後にのぞんでいただければと思います。

 

 

 

2016.9.9          作者:佐東亜阿介

野菜から食べて長寿を目指すなり短命県の返上願い

 

 青森県が「短命県」とされているのだということは、新聞やWebで目にしたことがありますが、はじめて見た時は少々意外な気がしました。また、「野菜から食べるのが良い」ということは、数年前でしょうか、かなりよく言われたように思います。ところで、短歌で何かを歌おうとするときの基本について、これまでにもお伝えしたかと思いますが、今回はもう一歩踏み込んで、お話ししたいと思います。

 

 それは、なぜ「詩」があり(広い意味で言います。その中に、内容として抒情詩・叙景詩・叙事詩があり、また形式として自由詩・定型詩・散文詩があります)、散文とは異なる価値を有しているのかということです。

 

 もちろん、真に語るなら一冊の本になろうということでありますが、端的に言えば「散文では語ることのできない内容を、散文よりも強いインパクトで語ることができる」点に、「詩」の力があると言えます。

 

 作者のこの歌の思いを「歌」としてインパクトのあるものにするには、すこし細工が必要でしょう。

 

短命県返上せんと野菜から喰いて長寿を目指す毎日

 

 

野球をば名付けた子規の句を学ぶ俳句文化の継承願い

 

 作者も野球がお好きなのですね。私(小田原)も、下手の横好きながら三十過ぎまではバッティングセンターに通い、数年前にやってしまった五十肩の恢復期には、塾の中でゴムボールを投げて最後のリハビリをしました。また、正岡子規は、俳句と短歌の再生・革新を果たした、両分野において、私どもにとってのまさに巨人と言えましょう。

 作品上では、まず初句に、文法上の訂正が必要です。「ベースボール」を野球「と」名づけたのが子規なのですから、初句は、「野球とぞ」とし、文語で「名付けし」と致します。

 また「俳句文化の継承願い」という作者の「本音」も、歌の表面にはあらわさない方がいいですし、「俳句文化」という句が「短歌作品」の中にあることにも、とまどう読者は多いでしょう。

 

野球とぞ名付けし子規の句を学ぶ俳句短歌の心なるべし

 

すこし、私自身の「遊び」を盛り込ませていただきました。「野球」イコール「野・ボール」の意だったと聞きますが、おそらく俳句や短歌の心に通じるものだったのではないかと考える次第です。

 

 

ITの分野で定年近き吾負い持つ業に励む喜び

 

 「負い持つ業」は、出色のものと思います。その「業」に日々励む喜びという結句、また初句の「ITの分野」という運びも良いのですが、それぞれを結ぶ助詞に、一考が必要でしょう。特に「で」は非常に口語的なので、「近き」との相性が良くありません。全体を整えて、以下の添削案としました。

 

 

  ITの業を負い持ち定年に近けれど日々励む喜び

 

 

 

2016.8.7                                               作者:佐東亜阿介

・ありふれた日々の暮らしを噛み締める電気釜からのぼる香りに

 

 とてもよく作者の気持ちが伝わり、生活の実感のある作品です。ただ、作歌の基本として、「われ」がこう思い、あるいはこうする、ということは、あまり直接、作品に現れない方が良い、ということが言えます。言い換えれば、淡々と事実を歌うことの背後に心情が透けて見えるような、そんな歌ぶりに、よく言われる余韻、余情があるということです。そんな観点から、添削案を作成しました。

 

つつがなき日々の暮らしのしるしとて電気釜より飯(いい)の香のぼる

 

 

・電算を真夜中独り監視する襲う睡魔と闘いながら

 

「電算」は、文字通りコンピューターのことでよろしいでしょうか。これもストレートな詠みぶりで、作者らしい作品と言えます。が、「電算」、「真夜中」、「監視」、「睡魔」と熟語が多く、また表現がやや直接にすぎるので、少し幅を持たせて、遊び、ゆとりのある一首にしたいと考えたのが添削案です。なお「ディスプレイ」は、年配の読者には取っつきにくいかも知れませんから、他の固有名詞があれば、差し替えていただいても良いかと思います。

 

真夜ひとりまなこを凝らすディスプレイ襲う睡魔と闘いながら

 

 

・台車押し顧客に荷物運ぶ日々まず届けたい笑顔と元気

 

 これも作者の日常がうかがえる、気持ちの良い作品です。短歌として工夫の余地があるのは、下句でしょう。とくに「笑顔と元気」があまりにストレートであることと、「届けたい」という口語から、ともすれば(言葉は悪いですが)一種の標語のように受けとられかねない点が残念です。そこで、四句を「まずは届けむ」と文語脈にし、「笑みとちからを」とはっきり倒置法(また「ちから」をかな書き)にしました。いかがでしょうか。

 

 台車押し顧客に荷物運ぶ日々まずは届けむ笑みとちからを 

2016.6.24                                                  作者:佐東亜阿介

行丘に週末だけの支那そば屋優しき味を知る人ぞ知る

 

「浪岡」に、「行丘」という表記があるとは、はじめて知りました。旅好きの身には、とても魅力的な地名です。「行」の字で「なむ」と読む動詞があるのでしょうか(「並む=なむ」と同義など)。Web検索、古語大辞典の見出しでは、見つかりませんでしたが。関東では、房総半島に「行川(なめがわ)アイランド」があります。

その由来などもブログに書かれると、興味深く、読者をひきつけ、お店のPRにもなるかと思います。また「浪岡町」は、いま横綱昇進が期待されている稀勢の里の先代師匠である横綱隆の里の出身地でしたね。学生時代、大ファンでしたから、毎場所テレビで、「青森県浪岡町出身」というアナウンスを、聞いていました。件の支那そば屋さんは、そこにあるのですね。

さて、作品ですが、「行丘に週末だけの支那そば屋」は、口語としては通らないこともないと思いますが、短歌作品では、無理があります。ここは連体格(連体修飾語を作る)の「の」で、「行丘の」とした方が良いと考えます。

また「知る人ぞ知る」は七音を使い切る成語で、短歌の中に盛り込むのには、勇気のいるフレーズです。しかし、お店への「讃」としての作歌動機も伺っていますので、原意をそのまま生かし、四句と五句を倒置法で入れ換えました。これで、短歌作品として、自立したものになるかと思います。

 

行丘の週末だけの支那そば屋知る人ぞ知る優しき味を

 

 

支那そば屋の体いたわる思いやり高み求めて止まぬ探求

 

 「支那そば屋」さんのご主人の、食べる人の健康に留意して探求をかさねておられる姿勢には、深く感じ入るものがあります。そのことを歌に詠み込み、贈るというお考えも、良いと思います。ただ「止まぬ探求」とダイレクトに言うよりは、ここでひと工夫をすることに、作歌の上での「探求」の余地がありましょう。「高み求めて」と「止まぬ探求」も、内容がやや重複している感があります。そこで「探求」する主体として「あるじ」に登場してもらい、感動をあらわす終助詞の「も」でまとめてみました。終助詞「も」は上代に多く用いられ、中古以降は少ないのですが、短歌では問題ありません。

 

「支那そば屋」の体いたわる思いやりあるじの探求つねに止まずも

 

 

 

一杯の薫るラーメン奥深くすする度また深き味わい  

 

「薫る」というラーメンの香り、味わいを、短歌定型の文脈の中にどう展開させるか、悩みました。原歌では、「一杯の」→ラーメン、「薫る」→ラーメンと、「ラーメン」に対する修飾語が二つあることから、少々こなれていない感があります。また下句も、すこし整理した方がよいと考えました。

そこで「薫る」を生かせず、またラーメン全体が奥深いという気持ちもおありだろうとは思いましたが、「奥深」いものの焦点を「香」に絞り、係り結びで三句切れにしました。下句も、「味わい」が「増す」という表現で、整合をとりました。いかがでしょうか。

 

一杯のラーメンの香ぞ奥深きひと口ごとに味わいが増す  

 

2016.5.27           作者:佐東亜阿介      

俳人を気取り句作に励みけり句友と出会い楽しさ増して

 

俳人と名乗るほどではないと謙遜なさりながら、俳句を作り、また句友と出会うことで、一層俳句を作る楽しさが増す・・・。俳句を学ぶ楽しさが伝わってくる作品です。問題は結句の「楽しさ増して」でしょう。「増して」という止め方は、やや中途半端で、歌が落着しない気が致します。そこで、石井は結句だけを改め、「いよいよ」の古語「いよよ」を用い、「楽しも」で納めました。対して小田原は、「気取り」を「擬して」、「励む」を「挑む」、「俳人」と初句で言っているので句友といわずとも「友」で伝わると考え、「楽しからずや」と反語を用い、「楽しくないことがあろうか、いや楽しい」という意を盛り込んでいます。ご存じとは思いますが、「また楽しからずや」は論語から引いています。いかがでしょうか?

 

俳人を気取り句作に励みけり句友を得るはいよよ楽しも(石井)

 

 俳人と擬して句作に挑むなり友得るもまた楽しからずや(小田原)

 

 

師と仰ぐ人とまみえし日を夢見今は句作に励む時なり

 

師というのは、メールの文面から、夏井いつき先生と拝察致します。これもメールから推し量ることですが、夏井先生とは一度お会いしてみたい、と思っていらっしゃると解釈致しました。すると、「まみえし」は過去の助動詞「き」の連体形「し」を用いていらっしゃるので、「お会いした」という過去形になります。これでは「夢見」ともそぐわないし、頂いた文面とも異なってきますので、石井は「まみゆる」、小田原は推量の助動詞「む」を用い、「まみえん(む)」としました。また、断定の「なり」は動きが乏しくなるので、石井は「励まんと決む」と、古語「決む」(口語「決める」→古語「決むる」の終止形)で納めました。対して小田原は、係助詞「ぞ」を用い、「今日ぞ楽しき」と係り結びでまとめました。いかがでしょうか?

 

師と仰ぐ人とまみゆる日を思い今は句作に励まんと決む(石井)

 

 師と仰ぐ人にまみえん日を思い句作に励む今日ぞ楽しき(小田原)

 

 

添削の歌集を望む我なりき拙き歌を如何に磨くや 

 

添削の経緯を一冊にまとめた本があれば、という作者のアイディア、とても参考になりました。一定量の作品が集まれば、まず冊子として実現させたいと思っております。

添削に入ります。事情を存じている私どもは、「添削の歌集」で理解できますが、一首の作品として初読する読者は、なんのことか呑み込みにくいのではないでしょうか?そこで、石井は「添削の歌を束ねし本」としました。また、「なりき」の「き」は過去の助動詞「き」(終止形)ですので、「望んだ」となってしまい、そぐわないと思います。ですから、石井案では「本のぞむ」としました。対して小田原は、かなり原歌を離れ、上句を「添削に歌磨かるる途ゆかし」としました。「ゆかし」とは、古語で、「具体的に好奇心を抱いた状態で、見たい、知りたい、聞きたい、などの意」を表します。下句で「願わくは一冊の本になれかし」と、ここで本のことを表現しました。小田原案は四句が大幅な破調(九音)ですが、「一冊」の「つ」や五句の「本」の「ん」などの半拍があることで、一首として成り立ちうるという経験則にもとづくものです。いずれ機会がありましたら、改めてご説明いたします。「なれかし」は、説得や確認のために念を押す気持ちを表す終助詞「かし」が、四段活用動詞「なる」の命令形「なれ」に付いたものです。

 

添削の歌を束ねし本のぞむ拙き歌を如何に磨くや(石井) 

 

添削に歌磨かるる途(みち)ゆかし願わくは一冊の本になれかし(小田原)

 

いかがでしたでしょうか?

 

今回の三首は、俳句や短歌を作るときの喜びや、希望、苦心の様などが表現されています。それはそれで、とてもよいのですが、石井が短歌を始めたころ受けた小田原からの指摘が、もしかしたら佐東様のご参考になるかと思いましたので、記してみます。

「短歌(俳句もそうでしょうが)を作るときの有り様を短歌に詠む、というのはやりたくなることだし、よくある短歌とも言える。しかし、それは得てしてつまらない作品になってしまう可能性が大きい。」

小田原にこれを言われたとき、私(石井)はショックを受けました。もちろん短歌なり俳句なりを作る様を詠った素晴らしい作品もありましょうから、一概に否定するものではありません。ただ、心のどこかに、こういう危険もあるのだ、ということを留めていていただけたら、と思うのです。気持ちを挫くようなことを言いましたが、ご一考下さい。

 

 

2016.6.1            作者:中溝幸夫       

卯の花の匂いほのかに漂へり十六夜の月を友と眺むる

 

 とてもよい情感が凝縮されていて、一点をのぞけば、このままでまったく問題のない佳作品だと思います。

 惜しむべき一点は、「卯の花」と「十六夜」です。当方の見識不足もあるかも知れませんが、「卯の花」は、季節で言えば夏の花であり、旧暦の「卯月」が「卯の花の月」の意であり、「皐月」、「水無月」、「五月雨」などの語と対比すると、初夏の花のイメージがあると考えられます。百人一首の持統天皇の歌「春過ぎて夏来にけらししろたへの衣ほすてふ天の香久山」の歌からも(しろたへの衣は、ウツギ=卯の花であると、一般に言われています)、夏の初めの花だというイメージが、多くの歌人の心中にあることと考えられます。

 いっぽう「十六夜(いざよい)」を辞書で引くと、「①陰暦十六日の月」のほかに、「②特に、陰暦八月十六日の月」という語義が、載っています。(古語大辞典、小学館)また、「十五夜」は陰暦八月十五日、「十三夜」は陰暦九月十三日の月、というような、樋口一葉につながる印象を持つとも言える読者のイメージとして、「十六夜の季節は何だっけ?(俳句の「季語」における「季節」の意です)」と感じることも、ままあるように思われます。

 この点が、ちょっと気にかかりました。一首の歌としては非常によくできていますので、この作に関しては添削案をお示しせず、「卯の花」と「十六夜」の関係についてのみ、ご一考いただければと思います。

 

 

水鳥の旅立ちあとの水面には蓮の蕾とむぎわらとんぼ

 

 この歌は、一首を構成している歌材がすべて名詞であるため、切り取っている情景自体は魅力的な内容でありながら、短歌作品としての味わいが不足しているうらみがあります。そこでまず、「水面かも」と三句切れにして、焦点を絞ります。また「むぎわらとんぼ」は残念ながら「蜻蛉(あきつ)」として、一首全体の締めを兼ねる形容の「しづか」(形容動詞の「語感」であり、形容詞ではありません)としてみました。

 むぎわらとんぼが、もし舞っている状態ならば、「蕾」の方を省略することで、別の形容のしかたがあると思います。

 

水鳥の旅立ちあとの水面かも蓮の蕾に蜻蛉(あきつ)ぞしづか

 

 

小手毬の丸き小さき花濡れて小枝も重し放物線を描く

 

非常に繊細な情景を描写しています。小さな小さな小手鞠の花まりの重さを、細い小枝が受けとめて、放物線を描いている。「放物線」が発見であり、もっとも強く言いたいところかも知れないと思いましたが、結句の十音には、やはり無理があります。「放物線」をどうしても盛りこむためには、他の素材を削らねばならず、それよりは、枝の様子を他の表現に置きかえようと試みたのが、添削案です。

 

 

小手毬の丸き小さき花濡れて重きや枝もまるくたわめる

2016.5.30                                                      作者:だまちょ

「朝の雨 園のツツジは濡れそぼち 押しのけて立つ若きヒメシヤラ」

 

朝の雨に、公園のツツジが濡れそぼち、それを押しのけて若いヒメシャラがすっくと立っている・・・。するどい観察眼から生まれた作品と言えましょう。この作品は「一字アキ」を試みられたものかと思います。小田原は、以前はよくこの手法を用いましたが、「あけずに一首を成立させるところに作歌の意義がある」という指摘を受けたこともあり、のち少しずつ、「あけずに書く」ことを志向するようになりました。ただし、必然性がある時の「一字アキ」を否定するものではなく、むしろそうすることで一首の完成度が高まるならば、積極的に挑戦するべきだと、今でも考えています。

 

 そこで御作の「一字アキ」についてですが、「朝の雨」と「園のツツジ」の部分には、その必然性があると受けとめられます。が、「濡れそぼち」と「押しのけて」の方は、必ずしもあいていなくとも良いという印象を受けました。そこで、添削案では前の「一字アキ」だけを生かすのでなく、一首全体を通して書く方向に運んでいます。

 

 

作品全体としては、多少盛り込み過ぎの感があります。短歌は「省略の文学」でありますから、何を削って、なにを残すかを、短い詩形の上で考えることが醍醐味と言えます。原歌で削れるとしたら、「朝」でしょう。初句を「濡れそぼつ」として一首を起こし、結句に「雨なかに立つ」を据えることで、原歌ではツツジとヒメシャラでややぶれてしまっていた歌が、ヒメシャラに焦点が当たって、落ち着くかと思います。なお、ご送稿下さった原歌では「ヒメシヤラ」とされておりますが、添削案と、この解釈・解説文では「ヒメシャラ」としております。この点も、ひとつ解説をさせていただきます。

 

新仮名遣い(現代仮名遣い)では、「ゃ」「ゅ」「ょ」の拗音、「っ」の撥音は、すべて小さく書きます。対して旧仮名遣い(歴史的仮名遣い)では、原則は大きく書くことになっています(「古文」では、そう書いてあります)。「沙羅双樹(しやらさうじゆ)」のようにです。ところでカタカナ書きをする単語は、そのほとんどが外来語で、たとえば「レディー」を「レデイー」とするよりは(明治期にはこのような用例も多く見られますが~「レデイ」など)、現代の感覚で「レディー」である方が読者に受け入れられやすいと思われることから、私ども美し言の葉でも、その立場をとっているのです。御作の「ヒメシヤラ」は「沙羅双樹」から来る「しやら」なので、悩ましいところではありますが、私どもの表記上のスタンスとしてご理解いただき、今後の参考にしていただければ幸いです。

 

 濡れそぼつ園のツツジを押しのけて若きヒメシャラ雨なかに立つ

 

また、「朝」を生かしたいお気持ちが強ければ、園を朝に変えるという方法もあります。その点、ご一考下さい。

 

 

「老い止まぬ我が身かばいつ鍬打てば黒土は飛び朝の日に光る」

 

お齢を重ねられ、失礼かもしれませんが鍬を打つとき痛みが走ったり、お若い時のようにままにはならぬ感覚がおありなのかもしれません。その身をかばいながら鍬を打つと、畑の黒土が爆ぜちり、朝の日に光っている・・・。作者の作品は、どれも「事物をよくご覧になっている」のが素晴らしいです。短歌の基本は、まず「見て詠う」ことだからです。

 さて、添削に入りますが、「かばいつ」の「つ」は、単独では「~つつ」の意味にはなりません。このままでは完了の「つ」=かばった、の意で二句切れになります。「~つ~つ」(たとえば「こけつまろびつ」のように)という形なら、「つつ」に近い意となります。また、短歌は「我」を言いたくなる言葉の器ですが、言わなくてすむなら、言わない方がよいことがままあります。ですから、「老いすすむ身をかばいつつ」とします。下句は、「黒土は飛び」でもよいのですが、「爆ぜ」と、より印象的な言葉を用いてみました。結句、「光る」は「ひかる」と読むのでしょうか、それとも「てる」と読むのでしょうか。誤読を避けるために、「輝る」(てる)の字に差し替えてみました。

 いかがでしたでしょうか?ご一考下さい。

 

 老いすすむ身をかばいつつ鍬打てば黒土爆(は)ぜて朝の日に輝る

 

 

「小エビ追い遊んだ小川は水清く年老いて想う故郷の野山」

 

この作品はほとんど添削の必要がありません。動かすとすれば上句でしょう。「遊んだ」は口語脈ですので、「追い」に過去の助動詞「き」の連体形「し」を用い、「追いし」とします。また、記憶のなかで「水が清かった」と述懐しているとすると、焦点がややぼけてしまいます。齢を重ねて「今、眺めている」と、「いまも」に改めることで、焦点ができると思います。下句はそのままでよろしいでしょう。

 唱歌「故郷」の歌詞を彷彿させるような、物静かな詠いぶりで、好感が持てます。

 

 小エビ追いし小川はいまも水清く年老いて想う故郷の野山

 

 

2016.4.29                                                          作者:佐東亜阿介

吾子の問ふ宿題に父悩みけり父の威厳を如何に保たん

 

お子様がお父様に問われた宿題に答えに窮し、父の威厳をどのようにして保とうか悩む・・・。ちょっとユーモラスな、お子様への愛情の感じられるいい作品だと思います。

 一番の課題は「父」を二度使っていることでしょう。下句はいいと思います。動かすとすれば上句でしょうか。上句で「父」を使わないように工夫してみましょう。「吾子」と言わなくても前後関係から分かりますので、「子」とし、「問ふ」を「問へる」と存続の助動詞「り」の連体形を用い、「問ふている」意を表します。そして「父」と言わず、「宿題にはたと」と、八音の字余りを恐れず表現します。そして詠嘆の助動詞「けり」ではなく、完了の助動詞「たり」を用いてはいかがでしょうか?なお結句の「ん」は推量の助動詞「む」で、旧かなでは「む」と表記するのが正しいです。

 

子の問へる宿題にはたと悩みたり父の威厳を如何に保たむ

 

 

宴席の間にいち早く着きにけり歌など詠みて孤独楽しむ

 

 このままでも十分いい作品だと思います。しかし、作者は、歌の構成を大きく動かしても受けとめてくださる技量をお持ちだと思いますので、動きを出す意味で、ひとつ添削案をお示しします。

 「宴席の間」は、「宴の間」と省略でき、その分言葉選びに余裕が持てます。そして「いち早く着きにけり」を「とく(早くの意)来たれども誰もなし」と、「誰もなし」で孤独感を強調します。下句はいいと思います。いかがでしょうか?

 

宴の間とく来たれども誰もなし歌など詠みて孤独楽しむ

 

 

いつき組入りて俳人目指すなり歌人と二足わらじ履きたし

 

 作者は文芸を趣味とすることを思い決められたとのこと、主に短歌、川柳、俳句に力を注いでいらっしゃること、そして俳句は夏井いつき先生の「いつき組」に入られたとのこと、すばらしいバイタリティに感服致しております。

 さて、添削ですが、ほんのちょっと助詞を補うだけでよろしいと思います。「いつき組」は字余りを恐れず「いつき組に」と、「に」を補い、また「二足わらじ履きたし」は「二足の」と「の」を補います。こうすることで、若干舌足らずな感のあった原歌が、うまく座るかと思います。なお「入りて」は「はいりて」と読まれる恐れがありますので、「入(い)りて」とルビをふれば万全かと思います。

 

いつき組に入(い)りて俳人目指すなり歌人と二足のわらじ履きたし

 

 

2016.4.29             作者:だまちょ

春、桜の季節が終わるころの繊細な情景描写に挑んでおられ、好感の持てる一連です。初回でもありますので、短歌一般のことからお話し致しますと、短歌は「省略の文学」であり、何を盛り込み、何をそぎ落とすか、そこに作歌のむずかしさと、うまく五七五七七の三十一音の一首をまとめることのよろこびがあり、さらには出来上がった作品の伝える「力」が生じます。そうした観点から、添削、解説をさせていただきたいと思います。

 

 

風吹けど乏しい花びら二つ三つソメイヨシノは痛々しく散り

 

 材料・動作をすこし整理することで、一首のまとまりを生むことができます。原歌では、「風が吹いて」、「桜花(ソメイヨシノ)が痛々しく散る」という文脈ですが、「風が吹く」ことそのものは隠した上で、「風によって散る」ことをあらわすことが可能です。

 

二つ三つ乏しき花びら散るばかり名残りのさくらはかく痛々し

 

 花が「散る」のは、ことに桜の場合は「風」によることが多いので、「散るばかり」とした第三句で、その感覚を盛り込みました。また「痛々しく」を「痛々し」と、形容詞の終止形とすることで、安定した結びになると考えています。

 

 

湖面わずか波立つ中をミズスマシ風に吹かれて揺れて流れたり

 

 この歌は、省略することはなく、語句の入れ替えと言葉のあっせん(助詞・助動詞を主とする表現の工夫)で、ほぼ同じ内容とすることができました。結句の「流るる」は連体形であり、厳密に文法の決まり通りではありませんが(厳密には終止形「流る」、あるいは原歌「流れたり」が正解です)、厳密に文法通りであるよりも、ケースバイケースの「例外」の方が適切である場合もあるのです。添削例でも、四句が「ミズスマシひとつ」と八音の字余りになっておりますが、全体のバランスとして、この形を提案させていただきます。追って、またご説明する機会を持ちたいと思います。

 

風吹けば湖面わずかに波立ちてミズスマシひとつ揺れて流るる

 

 

湖水にはムラサキツツジぞ映り込み桜の花は寂しく過ぎて

 

 この歌では、二句の「ぞ」を省き、三句を「映り込む」と終止形で止めました(三句切れになります)。また「桜の花」を、「桜のとき」と改めてあります。ただいまのところ、この形でいかがでしょうか。文法のことを、添削案の後に記します。

 

湖水にはムラサキツツジ映り込む桜のときは寂しく過ぎて

 

 「ぞ」という助詞は、「係助詞(けいじょし)」です。強意(強調)・反語の意を有しています。そしてご存じと思いますが、「係助詞」は「係り結び」をとる決まりがあります。「ぞ・なむ・や・か」は連体形、「こそ」は已然形で文末を結ぶ、というものです。

 

 二首目のところで申し上げた通り、絶対的に「文法の決まり通りでなければならない」ということはないのですが、私どもを含め、「短歌の読者」は、「ぞ」の結びは係り結びで連体形になっているのが当然だ、という先入観で、一首一首の短歌を読みます。その時、「ぞ」が用いられているのに、「違う書き方」である場合、まず「違和感」を覚えます。提示された短歌に「評」を下す場合、そこが「マイナス」にもなるのです。

 

 その意味から、まず「ぞ」を省きましたが、省いた上で三句切れとした添削案は、いかがでしょうか。

 

 

2016.3.14                                                                                         作者:中溝幸夫

    黄鶲(きびたき)の飛び来る庭に春まだき「早春賦」の詩(うた)のごとくに

 

キビタキは訪ね来るようになっても、「春は名のみ」で、風も寒い頃の情景ですね。技巧上の点から考えてみたいと思います。「春まだき」の「まだき」はよく見ますが、「いまだし」の連体形から来るのかと思い、調べてみますと、小学館『古語大辞典』では、語源はやはりそう類推しながら、品詞としては副詞、語義は「まだその時期でないのに、早くも」と書かれていました。語義の方は、必ずしも辞書に書かれている通りとは限りませんから、措くこととしますが、「いまだし」「まだし」の意で用いるとして、「庭に」ではなく、「庭は」の方が、しっくり来るのではないでしょうか。

また、四句が六音である点も、改める必要があろうかと思います。原歌への添削としては、以下の案となります。

 

黄鶲(きびたき)の飛び来る庭は春まだき「早春賦」なる詩(うた)のごとくに

 

また、「早春譜」という曲名でなく、「春は名のみ」の歌詞を盛り込む方法もあります。

 

黄鶲(きびたき)の飛び来る庭は春まだき「春は名のみ」の詩(うた)のごとくに

 

    正確な時を刻んで白蓮のつぼみ膨らむ早春の里

 

こちらは白蓮の花が時をあやまたず咲くさまを的確に読んでいますね。このままで十分

良いと思われます。たとえば文語的、より短歌的な言葉づかいとして、初句を「確かなる」とすることなど考えましたが、「正確な」とは、意味が変わるきらいもあります。「刻んで」を「刻みて」にする案も添削の過程に浮上しますが、「正確な」につづくなら「刻んで」の撥音便の方が良いでしょう。

あえてアクセントをつけるとすれば、結句でしょうか。可能性の一つとして、結句を改める添削例を、考えてみました。

 

正確な時を刻んで白蓮のつぼみ膨らむきさらぎの里

 

 

    遠ざかる堤(つつみ)の桜むらさきにけぶれり春はすぐかもしれぬ

 

「桜」が「むらさきにけぶ」るのは、開花直前かと思って読みましたが、四句の句また

 

がり以降を読むとそうではないらしく、どのような情景だったのでしょうか。そこに疑問が残り、けれども魅力のある作品です。詩歌ですから、すべての字句に整合性がなければならないわけではありませんが、「魅力」を「疑問」が上回ってしまうと、読者をつなぎとめることができません。「堤の桜」ですから、雨の中、そのように見えたのか。もう一つ手がかりがあって、すっきり咀嚼できると、より良い歌になると思います。

2016.3.14                                                      作者:佐東亜阿介

黒豆を炊く専用の電気釜黒く染まりて甘く薫りぬ

 

 黒豆専用の電気釜をお持ちなのですね。興味深く拝読しました。歌想も、その電気釜が色は黒くなり、かつ甘い香りを放っているということで、良いと思います。ただ、下句が対句的になるのですが、短歌は音数の制約が大きいため、流れやすく、対句は不向きです。また表現上の重複は、避けるのが基本です。もちろん、あえて重ねる手法もあるのですが、その時は、言葉選びを慎重にする必要があります。

 

黒豆を炊く専用の電気釜黒光りして甘く薫れり

 

 「黒光り」では、原意と多少異なるかも知れませんが、歌のリズムという点では、がらりと変わると思います。また「ぬ」に代えた「り」は、完了・存続の助動詞ですから、いま「黒光りして甘く薫っている」意となります。いかがでしょうか。

 

 

雪掻きにひねもす務め終えにけり夕餉の前の湯や心地好く

 

 一日中雪かきをされ、夕餉の前のお風呂が疲れを癒す。北国の冬の日常を詠まれた、良い作品だと思います。このままでも十分良いのですが、少し慣れた、きびしい目を持つ読者からは、結句に対して批判が出るかも知れません。より表現をつきつめる例として、一つ添削案を挙げておきます。

 

 ひねもすを雪掻きおえて湯につかる夕餉のかをりほのか立ちくる

 

 こうすれば、一日の雪掻きを終えてくつろぐ作者の姿が、原歌での「作者一人」の描写から、疲れをねぎらってくれるご家族の存在を詠みこんだ、奥行きのある作品になるのではないでしょうか。

 

 

ツイッター如く短歌が普及せば楽しからずや恋語るとも

 

 私はツィッターについては、アカウントを取得しただけでほったらかしてあるのですが、中学生でもツイッターを使っている子が多い現在、たしかに「恋」と「ツィッター」と「短歌」とを並べてみるのは、面白い着眼です。古いことを思い返せば、『サラダ記念日』で短歌のすそ野が広がり、(当時の)若い人たちが「われもわれも」と短歌らしきものをつづった時代に、ツィッターのようなものがあったら、どうなったかな?という想像も広がります(読んだことはありませんが、ケータイ小説というものも、あるそうですし)。

 

ところで作品の技巧上は、六音にはなりますが、初句の「ツィッター」のあとには、「の」が必要だと考えられます。

 

 ツイッターの如く短歌が普及せば楽しからずや恋語るとも

 

 また、「とも」は本来、文語で「逆説の仮定」をあらわす接続助詞です。このままでまったくの誤りではありませんが(たとえ苦しい「恋」を語る場合であっても、ツイッターのように短歌がはやっていたら楽しいだろう、の意)、原歌の歌意は、「(かがやかしい)恋を語る時にも、ツイッターのように短歌が広がっていたらもっと楽しいのではないか」の意だと、私には思われましたので、「にも」の方がよりふさわしいと考えて、次の添削案としました。

 

 ツイッターの如く短歌が普及せば楽しからずや恋語るにも

 

 ただし、絶対的に、辞書におさめられている字義に従うこともありませんし、昨今の言葉の感覚は、大きく変動しています。また、「恋を語る」のが「苦しい」歌意ならば、まさに原歌の言葉運びが正解であるわけです。

 

 

2016.2.23             作者:佐東亜阿介     

    日の光心地よい風ビートルズ他に要らない午後のひととき

 

 とてもおだやかな、気持ちのよい光景が目に浮かびます。技術的には、「日の光」「心地よい風」「ビートルズ」と、「心地よい」材料が、各句とも名詞止めで並んでいるので、助詞をうまく使うなどして、工夫したいところです。

 

 ビートルズ聴きつつをれば午後の陽と心地よい風がわれをつつめる

 

 

    成人の自閉症とや我が脳は思い当りて深く安堵す

 

歌を詠み、詩や小説を書く、あるいは哲学の道に入る、そうした人々は、みな何かしら心に常ならぬものを秘めているかと思います。太宰はその典型でしょうし、キルケゴールは「心にある棘」のために、婚約者とともに生きることを捨てたと、読んだことがあります。「自閉症」とは大胆な表出の仕方ですが、こうした大胆さは、可と考えます。

気になるのは、「と-や」であり、ここは「か-と」の方がすわりがよく、読者も受けとめやすいだろうと思います。

 

成人の自閉症かと我が脳は思い当りて深く安堵す

 

 また、「思い当」る脳に対して、「安堵す」るのは心の働きかとも思え、この関係は、少し掘り下げて考えてみても面白いかと思います。国語のテキストの引用程度の文章で読んだに過ぎませんが、養老孟司さんは「心は脳の働き」と断言していますので、御作の言葉づかいが誤りだということではなく、「脳?心?」ということを、考えるのは面白いかな、という意であります。

 

    独創の措辞とは何か自問する独善排し類想を捨て

 

 非常に難しいところを詠んでおられますので、あえて率直に申し上げたいと思います。短歌あるいは詩歌に限らず、およそ文学作品というものは、作者自身が「こう」と思うところを、「こう」だとは言わずに、それこそ修辞を凝らして、その「こう」の内容を作品化することに、いのちがあります。すなわち下句の「独善排し類想を捨て」たところから、作者がどのような言葉をつむぐのか、そこに読者も注目するのです。

 

 別の言い方をすると、作者が自身の考えること、伝えたいことをストレートに作品に盛り込むよりも、すこしずらして、「あえて言わないところ」を読者に読みとってもらうことが重要です。

 

 この点では、自作の引用で恐縮ですが、私自身の経験譚をお話ししましょう。かつて、長良川河口堰反対運動に身を投じ、あわせて次のような作品を発表しました(抜粋です)。

 

淡々と工事はすすむ子々孫々むしろ恥づべきものなれどなほ

人類の叡智といひてどれほどの生命を、種を、破壊したか

傍観はネガの課外と確信す 平成三年十月五日 夜

 

しかし、短歌作品として奥行きがあり、読者にも好まれる(あるいは読んでもらえる)のは、次のような歌なのです。この点は、私自身も作品を発表してほどなく理解しました。

 

堤防をちひさき蟹が這ひまはり這ひまはりつつ雨にぬれてゐる

 

 感覚的に、おわかりいただけるでしょうか。実例でご説明したような観点から、添削案を考えてみました。

 

 

独創の措辞を求めて推敲す石積むごとき日々と思いつつ 

 

 

2016.1.20             作者:中溝幸夫 

   今回の作品は、凛とした高山、登山の実景を詠んでおられ、雪山=新雪の峰に強い憧れを抱きながら、自らは仰ぎ見るのが専門の私としては、実地のおもむきに触れ新鮮な感覚を味わうことができました。

 

    振り向けば遥か高みに剱岳雪頂きに雲が湧き立ち

 

 一読して、壮大な雪山の景がまなうらに浮かびます。言葉の斡旋、すなわち一首全体の言葉運びや、用字の点で気になるところがありますので、少し整理してみたいと思います。まず、単純に言葉だけを整理すると、次のように動かしていかるかと思います。

 

  振り向けば遥か高みに剱岳雪頂きに雲が湧き立ち

            ↓

  振り向けば遥かな高みに剱岳雪頂きに雲が湧き立ち

            ↓

  振り向けば高みはるかに剱岳雪頂きに雲が湧き立つ

 

次に、下線部分の三・四句で名詞、漢字が連続しているところを検討します。

 

  振り向けば高みはるかに剱岳しろき頂きに雲が湧き立つ

 

 四句は字余りとなりますが、壮大な情景を詠っていますから、疵にはならないと思われます。漢字の連続を回避するために、「しろき」としました。

 

    雪が飛び風頬を射し空蒼く冬剣岳の頂きを目指す

 

この歌は、二ヶ所、大きく気になるところがあります。まず、「雪が‐飛び」「風(が)

頬を‐射し」と、主語・述語が二組ありながら、後の方は「が」が省略されていて対句に

ならないこと。そして四句での「冬剣岳の」の「冬」と「剱岳」のつながりです。後者は散文ならば、「冬、剣岳の」と読点が入るところでしょう。着想の美しさ、きびしさを生かすためにも、言葉の斡旋を計りたいところです。

  

雪散らし頬(ほ)を射貫く風きびしかり蒼空に立つ剣岳鋭(と)し

 

 これで十分、実地に剱岳の頂きを目指している感覚は、盛り込めるのではないでしょうか。なお原歌のように「射す(し)」一語である場合には(添削案は「射貫く」の複合語)、

「刺す」の用字が適切かと思います。

 

    太き尾根昏き林に積む雪をラッセルしつつパーティは登る

 

「太き尾根」は、山登りをなさる当事者にしか、表しえない表現だと思います。「昏き林」には、大いに共感します。余談ですが、若い頃、八ヶ岳や蓼科に事業所のある宿泊業の会社に勤めておりましたので。

 さて、この歌は、結句を手直しすることで、おおむね解決が図れるのではないでしょうか。すなわち-

 

  太き尾根昏き林に積む雪をラッセルしつつ登るパーティ

 

 こうすることで、一首の「すわり」は良くなると思います。もちろん、作者の立ち位置が変移することとなり、原歌では「パーティー」の中にある作者の視線が、添削案では外から第三者的に見ていることとなるうらみはあるでしょう。しかしそれも絶対的なものではありませんし、原意をそこなわずに一首の安定性を獲得するという意図で、上記を添削案と致します。

 

 

 以上、山登りにおける「実感」は想像しつつ、修辞の面から解釈と添削を試みた次第です。

 

 

2016.1.2              作者:佐東亜阿介      

◎いつもより寝坊した朝二人して気だるげに飲むコーヒー甘し

 

 休日の朝、お二人での憩いのひとときでしょうか。あるいは「寝坊」というアクシデントを開き直って楽しむような、そんな光景でしょうか。ご夫婦二人の、日常とは少し違った様子に、倦怠感がただよっている、良い作品です。

 一点、歌壇的な注意点を挙げると、「甘し」という語は、それを使うだけで作品が「甘い」と指摘されることが、ままあります。特に「気だるげ」と「甘し」の共存は、苦しいところでしょう。「気だるげ」を生かし、「甘し」の語を差し替えることで、添削を試みたいと思います。

 

いつもより寝坊した朝二人して気だるげに飲むコーヒー温し

 

 

◎地元紙に載りし吾が歌まだ一首たゆまず詠みて天位目指さん

 

 御作が「地元紙」で掲載された由、まことにおめでとうございます。メールで拝見しましたが、いい歌ですね。「皺一つなく」の二句から三句へのつながりが、とてもいいです。

 さて、批評・添削対象の作品ですが、下句、特に結句をひと工夫することで、率直な作者の思いが、もっとゆるぎなく読者に伝わるものになるのではないでしょうか。「天位を目指そう」という意思を、直接あらわすのでなく、一歩下がって表現することで、歌としての広がりが生まれます。

 

地元紙に載りし吾が歌まだ一首たゆまず詠まん天位ははるか

 

 

◎松の間にいつか行かんと志すすめらみことにまみゆと願い

 

 

 「松の間」に行こう、とのお志、歌会始を念頭に置いてのものでしょうか。ぜひ今上陛下にお目にかかれるよう、頑張って下さい。今上陛下と昭和先帝、お二人の帝の御世をほぼ等しい期間知っているわれわれの年代では、皇室と「すめらみこと」に対する感じ方が、やや複雑です。かつて岡井隆さんが歌会始の選者になられた時、歌壇の一部からは強い批判があったというような、過去の経緯もあります(私も違和感を覚えました)。

 

 もちろん、今上陛下と皇后陛下がこんにちの皇室の在り方をおつくりになった、そのお心とお力は、深く尊敬し、敬愛致しております。ただ、読者によっては、「すめらみこと」のとらえ方に諸々の思いがあるだろうということは、作品の思想・背景として、留意される必要があろうかと思います。

 また、作歌の技巧上の面では、「すめらみこと」を直接言わない方が、深みが出ると思われます。

 

いつしかにお題を深く詠みきわめ松の間に座を占めんと誓う

 

 「すめらみこと」を避けるために、全体の構成を大きく変えましたが、いかがでしょうか。「松の間」を目指す目標がさらに高いところにあるならば、その題材を「匂わせる」ことで、同様の詠み方ができるでしょう。

 

 

2015.12.2              作者:(あ~すけ改め )佐東亜阿介  

添削で見違える歌産まれけり石でありしが玉にて帰る

 

                      (原歌) 

 

この作品はほとんど添削の必要がないと思います。文語できっちりまとめられていますし、結句の「石でありしが玉にて帰る」も、「石」と「玉」が、やや常套的とはいえ、一首を落着させています。少し気になるのが、三句の「産まれけり」でしょうか。大きな疵では勿論ありませんが、「なりにけり」としたほうが、前回の「原歌」と「添削案」の移り変わりのようなものが見えるのでは、と思い、今回の添削案といたしました。歌が「産まれる」という比喩も捨てがたいのですが・・・。なお、「見違える歌と」と、八音になりましたが、前後の整合性から考えて、あえて採用させていただきました。

 

添削で見違える歌となりにけり石でありしが玉にて帰る

 

                      (添削後) 

 

 

初めての文化祭子のがんばりに父も初めて焼きそばを焼く

 

                       (原歌)

 

初めての文化祭で、お子さんが一生懸命頑張っておられる。それを目にしたお父様も、「焼きそばを焼く」という、初めてのことに挑戦され、お子様と息を合わせ、応援なさる気持ちでいらっしゃる・・。お子様を想う気持ちが溢れ、作者の誇らしいお気持ちも滲み出て、よい作品だと思います。

ただ、二句の「文化祭子の」と続くところ、少々窮屈な感を覚えます。また、「初めて」が「子」と「父」の双方に使われていること、意識的になさったのでしょうか?この作品の構成だと、若干不用意に思えます。「子のがんばり」は生かしたいところですが、下句に譲り、「父もがんばり」とさせていただきました。そして、お子様の方は「奮う」という言葉を斡旋してみました。

 

文化祭を初めて迎え子は奮う父もがんばり焼きそばを焼く

 

                      (添削後)    

 

 いかがでしょうか?かなり原歌を大きく壊してしまったので、ご不満もあろうかと思われますが、こういう添削案もある、ということでお納め下さい。

 

 

いつの日かあっと言わせる人物になると決め早や二十年経ち

 

                       (原歌)

 

 誰しも(と言っては失礼ですが)世の中をあっと言わせる、ひとかどの人物になりたい、そう願ったことはあるのではないでしょうか。とても共感できる作品です。

 二句の「あっと言わせる」は、「(世の中を)あっと言わせる」と、「世の中」が省略されていますよね。その省略による物足りなさがちょっと気にかかりました。そこで、「世を唸らせる」と改めてみました。また、結句の「二十年経ち」と、連用中止法で収めるのは、二十年経ち、そして今も・・・。という意味が含まれているのだと思いますが、少し宙ぶらりんな感がします。ここは、「二十年経つ」と、終止形で終わらせた方が、一首の座りがいいように思います。

それらを考慮した添削案が次案です。 

 

いつの日か世を唸らせる人物になると決め早や二十年経つ

 

 

2015.11.20                                                作者:中溝幸夫       

    暮れる秋つめたき雨に水仙の包(つつみ)の中の蕾縮まる

 

                          (原歌)

 

晩秋の雨の中、水仙の様子を精密に観察、描写しておられ、うなずかされます。音韻の上で気になるのは、「つつみ」「つぼみ」と、「つ」「み」が重なること、さらに「ちぢむ(ちぢま・る)」と、タ行音・マ行音が連続するところでしょうか。

 これはもちろん「禁忌」などではなく、一首を読んで受ける印象が、ほどよい、快いリズムなのか、逆に違和感や物足りなさを覚えるのか、ということをつきつめて行った時に、解明されるたぐいのものです。

 原歌は、「違和感」「物足りない」というほどマイナス面が強いわけではありませんが、いま少し、結びをどっしりと受けとめる感覚があっても良いかな、と感じました。「蕾」は動かせないでしょうから、締めの「縮まる」、次いで「包み」の順に、一考の余地があろうかと思います。

 ちょっと調べてみましたら、水仙は蕾まで育てても、そこで枯れてしまうことがままあるそうですね。そこを案じての「縮まる」であれば、他の言葉に置き換えるのは難しいかも知れませんが、何か適切な言葉があるのではないでしょうか。一案として、「縮まる」を「ちぢかむ」としてみました。さらにふさわしい言葉を探っていただけると、良いと思います。

 

暮れる秋つめたき雨に水仙の包(つつみ)の中の蕾ちぢかむ

 

                        (添削後)     

 

 

    天草の大いなる海眺めつつ昏くなりゆく浜に佇む

 

                         (原歌)

 

「天草」の固有名詞と「大いなる海」という「海」への賛辞がうまく呼応するのか、否か、の判断が大事です。実はこうした対応のさせ方は、意外に難しいものであります。私自身も経験があるのですが、作者自身は眼前の景に強い感動を受けており、ごく自然に実景=固有名詞と、内面の感動とを結びつけます。が、言葉を通して客観的にとらえる読者の目から、あるいは作者自身が、時を経てふたたび作品を検証するとき、どのように感じるのか。

 

 私の実体験では、直接対応させるかたちのものは、後年改善の余地があると感じたケースが、多くありました。その経験値から言えば、固有名詞と賛辞とは、離しておいた方がおおむね成功するということを、助言させていただきます。

 

暮れてゆく大いなる海眺めつついま天草の浜に佇む

 

                        (添削後)  

 

 もちろん作者の好み、思いを尊重する立場ですから、一例として、提示するものです。また、添削案の形ではなおのこと、「天草」をより典型的な固有名詞、たとえば「牛深」や「苓北」、九州本島から見ているのなら「八代」や「不知火」などに置き換えた方が、印象が鮮烈になると考えます。

 

    たで原の芒の穂にもやはらかな晩秋の風が語りかけなむ

 

                         (原歌)      

 

「なむ」は入試古文でも、「『なむ』の識別」として出題される、複数の成因のある語です。はじめに整理します。

 

    助詞「なむ」 未然形接続。他への願望。「あつらえのなむ」

 

    (強意・確術)の助動詞「ぬ」の未然形推量の助動詞「む」(終止、連体)

推量の「む」を強める。「ぬ」の接続なので、連用形に接続。

 

③係助詞 主として係り結び(連体形)をとる。強意。連体形または体言に接続。

 

(語ではないが)ナ変動詞(死ぬ、往ぬの二語のみ)未然形推量(意志)の助動詞「む」(終止、連体)の一部

 

原歌は下二段動詞「語りかく」に続いていますから、形の上からは①か②ですが、格助詞「が」(主格)があること、また文脈からも①ではなく②と受け取るのが普通です。すると「たで原の芒の穂」は、A. 実景でしょうか。それともB.過去に足を運んだことのある場所の現在を、想いみているのでしょうか。

 

A. の場合は、曖昧で意味のとりにくくなる「む」(「なむ」)を使うのでなく、「かも」などの終助詞の方が、良いかと思われます。

 

たで原の芒の穂にもやはらかな晩秋の風が語りかくかも

 

ここで、断定の助動詞「なり」も候補になりますが、連体形接続で「語りかくるなり」となるため、不適です。

 

またB. の場合、原歌の表現で誤りとは言えませんが、より明確な現在推量の助動詞「らむ」を用いた方が、二案に読めるというとまどいを読者に起こさせないので、良いでしょう。

 

たで原の芒の穂にもやはらかな晩秋の風が語りかくらむ

 

                       (添削後)    

 

これなら「今、あのたで原の芒に、晩秋の風が語りかけていることだろうなあ」と、すっきり読めます。

 

今回は、文法・用語等が中心となりました。何十年書いていても、また文法等の知識があっても、自作となると上手く行かないのが、短歌、創作というものではないでしょうか。

2015.11.5                作者:あ~すけ

今日は新メンバーをご紹介します。あ~すけさんです。

あ~すけさんは、全体的に口語調で、率直に思いをまとめておられ、好感が持てました。

ひとつ、短歌そのものの特徴、注意点として、大前提をお伝えしておきますと、五七五七七という日本語のリズムには非常に快い韻律があり、それゆえ各種の標語なども、同じ音数で作られることが多くあります。したがって短歌作品も、最初は五七五七七にまとめることが目標ですが、そこから屈折や陰翳を生んでゆくことが求められるようになって行きます。そうした前提に立って、具体的に批評・添削をすすめさせていただきたいと思います。

 

 

一人でも生きていけると強がるが離れてみれば恋しさ募る

                       (原歌)   

 

一人でも生きていけると強がるが恋しさ募る離れてみれば

                      (添削後)  

 

 「一人でも生きていける」と言って「離れ」た相手は、ご家族でしょうか、あるいは恋人でしょうか。いずれにせよ、ストレートな情感が好もしく感じられます。ただ、先に述べた「屈折」を生むねらいから、第四句と第五句を入れかえて、倒置法にしてみました。こうすることで、「恋しさ募る」思いが、より強く読者に伝わるはずです。

 

 

割り込んだ車に立てる腹なだめ静かに生きる人になりたい

                       (原歌)

 

割り込んだ車に立てる腹なだむ静かに生きる人になりたい

                       (添削後)1

 

割り込んだ車に立てる腹さする静かに生きる人になるべし

                       (添削後)2    

 

 二つの添削案について、先に解説致します。どちらも、「三句切れ」にしました。「なだむ」は、「なだめる」の、文語の終止形です。原歌においても一首の意はよく通るのですが、あまりにスムーズに流れすぎるうらみがあります。お送りいただいた三首めでは、「苦しみぬ」と文語も使われていますから、「なだむ」の三句切れで、一度切ったものです。

 が、「なだむ」と「なりたい」の文語・口語併用がすこし気になる部分もあり、さりとて「なりたし」にすると、今度は文語で型にはまりすぎてよろしくない。

 そこで、結句を「なるべし」とし、三句を「さする」としたのが二案めです。さすって「なだめる」ということで、動きを出したというねらいもあります。

 

 

空腹につい耐えかねて手を伸ばし満腹過ぎてまた苦しみぬ

                        (原歌)

 

空腹につい耐えかねて手を伸ばす満腹となりまたの苦しみ

                        (添削後)1    

 

空腹につい耐えかねて手を伸ばすつい食べ過ぎてまたの苦しみ

                        (添削後)2       

 

 この作については、四句の「満腹過ぎて」という表現そのものに、疑問があります。おそらく「満腹すぎる状態で」の意と思われますが、書かれている言葉の上からは、「満腹の状態を過ぎて」と、読まれる可能性もあります(「短歌的な読み方」ではありましょうが)。

 その点についての言葉選びをオーソドックスに修正したのが添削一案め、「つい」をあえて重ねることで、軽快さと面白味を出そうとしたのが、二案めです。


この作者は、素直に心情を詠まれており、とてもよく伝わってきます。この素直さを武器として、屈折・陰翳といったテクニックを徐々に身に着けられるとよいと思います。

 

2015.10.23                   作者:中溝幸夫      

 わが大地地球(テラ)から生まれしあの月が今宵輝くスーパームーン

                           (原歌)

 

 「スーパームーン」は、この一、二年、秋の話題を集めている感があります。「地球=テラ」も、なつかしい感じがしますね。私が最初に思い当たったのは、「地球(テラ)へ」という1970年代後半のSF コミック(定義はウィキペディア)のタイトルでした。ただ調べてみると、もともとはラテン語、それゆえ現在のイタリア語ということですから、作者の意図は、奈辺にあるのでしょうか。

 

さて、新しい言葉、ある時期によく使われた(使われている)言葉を用いる場合、読者をどのように想定するかということにも、意を払う必要があります。私たち(小田原、石井)の年代では、「地球(テラ)へ」のイメージが強く、しかし好悪もしくは親疎の度合いは、読み手によって大きな落差がありますから、ある人は賛意を表し、ある人はそうではない、ということが、考えられます。「スーパームーン」も、根本的には同様でしょう。ネットを主とした今の情報環境の中で、スーパームーンを「知らない」人はほとんどいないかと思われますが、やはり好悪、親疎の度合いは、人それぞれであると考えられます。

 

これらのことをすべて「是」とし、批判はすべてご自身と作品が受ける、という態度を貫かれるのであれば、原歌に対して添削の要はないと考えます。

 

しかしながら、それでは「美し言の葉」の責めを果たせませんし、文語脈と歴史的かなづかいを容認される作者なので、あえて「冒険」ともいうべき添削案を、ひとつ提示させていただきます。「テラ」について、「地球」「大地」双方の意があることを含んでの見解でもあります。

 

たらちねの地球(テラ)より生(あ)れしあの月が今宵輝くスーパームーン

                        (添削後)

 

ご承知の通り「たらちねの」は、「母」にかかる枕詞ですから、「地球」にかけるのは反則でしょう。しかし「地球(テラ)」という語を生かした上で、私の解釈が当初の歌意から大きく外れていなければ、作者の力量と個性から考えても、こうした可能性はありうるのかと考えます。

 

 

 逆光の大気の中を眺めやれば蜻蛉の羽キラとひかりぬ

                          (原歌)

 

 この作品については二点、指摘をさせていただきたいと思います。一点目は、「眺めやれば」と六音の字余りになっている第三句です。「眺めやる」の三句切れ、もしくは結句が「ひかりぬ」と文語の完了の助動詞でおさめられていますから、「眺むれば」もありうるのではないでしょうか。

いま一点は、結句の「キラと」のカタカナ表記です。もちろん、どのように表記するのも作者の選択次第ですが、カタカナの「キラ」が気になる読者もいることでしょう。ひらがな表記の「きらと」との比較検証(すでになさっているかとも思いますが)、あるいは他の表現を追求する余地が、あるように思いました。「キラと」の表記はそのままにして、一点目の添削案を二例、掲げておきます。

 

逆光の大気の中を眺めやる蜻蛉の羽キラとひかりぬ

                      (添削後)1    

 

逆光の大気の中を眺むれば蜻蛉の羽キラとひかりぬ

                      (添削後)2    

 

 

 苦瓜のカーテン外すそこに開く窓の景色をなつかしく眺む

                       (原歌)   

          

 いっとき視界を閉じていた苦瓜のグリーンカーテン それを外すと、視界が旧に復した、いい情景だと思います。が、「そこ」の用い方がすこし気になります。この場合こそ、まず文脈的に「外せばひらく」などの方向性が、適切ではないでしょうか(カーテンを外す、そこに開く、と言う動きをねらったものと解されなくはないのですが、二句、三句が動詞のウ段音で終わるデメリットの方が大きいように思えます)。

 

 苦瓜のカーテン外せばそこにひらく窓の景色をなつかしく眺む

                         (添削後)1

 

 二句が八音の字余りになりますが、ひとまず妥当な線かと思います。ただ、結句が「眺む」の文語なので、二、三句の口語脈を文語脈として整合させるためには、以下の案も成り立つと思われます。

 

苦瓜のカーテン外せばひらきたる窓の景色をなつかしく眺む

                        (添削後)2   

                      

 

 一つ目の添削案は口語・文語併在、二つ目は文語にしぼった形になります。より安定的なのは二つ目の方かと思いますが、参考になさってみて下さい。

 


2015.9.21                                                                                             作者:中溝幸夫  

 

 今回は、定型に収めることを主眼にまとめられたものと拝察します。しばらくの間、破調、屈折に挑んでおられましたが、「定型」という「初心」に戻されたのでしょうか。そうした「揺れ(揺らし)」は重要なことであり、試行錯誤を繰り返す中で、骨格、あるいは内在律というものが、確立されることでしょう。

 では、一首ごとの批評・添削に取り組みたいと思います。

 

 

1、ひっそりと静まりかえる十和田湖に遊覧船が出発を待つ

                      (原歌)

 

<添削のポイント>

かちっとした定型に収めることは、それ自体困難なことなのですが、一方で、微細な言

葉の使い方ひとつで、印象が強くなったり、弱くなったりもします。

 この作品の場合は、美しくかつ力のある上句に対して、下句がすっと流れてしまうような印象を受けました。わずかな言葉の置き換えで、大きく印象が変わると思います。

 

ひっそりと静まりかえる十和田湖に遊覧船は出航を待つ

                     (添削後)

 

 いかがでしょうか。「が」と「は」を置き換え、「出発」を「出航」としました。「は」と「が」についてはご存じのことと思いますが、ここでは、「は」とすることで、上句の大景から、遊覧船という点景に、焦点が絞られます。

 また、「しゅっぱつ」を「待つ」は、脚韻と取れなくもないのですが、メリット・デメリットを吟味したとき、やはり「出航」として、音が重ならない方に利があると考えました。

 

 なお7月に、「旧かな」(歴史的仮名遣い)を使われるのか否かについて、言及させていただきました。そうであるなら、「ひつそりと」「静まりかへる」が正しい表記となります(今、その時の批評添削稿を確認して、「田植え」について見落としていたことに気がつきましたので、改めてお詫びとともに旧かななら「田植ゑ」であることも、申し添えます)。

 

 

2、霧流る八幡平の草もみじ北国の秋が足早に来る

                       (原歌)

 

<添削のポイント>

この作品は、初句を「霧流るる」と改めるだけで、良い歌になると思います。「流る」

はラ行下二段活用の動詞ですから、原形では終止形で、初句切れとなります。しかし、六音の字余りでも、「霧が流れる八幡平」の草もみじ、である方が、良いでしょう。なお「もみじ」も旧かなでは、「もみぢ」となります。

 

 

霧流るる八幡平の草もみじ北国の秋が足早に来る

                    (添削後)

 

 

3、東北の自動車道の街路樹のナナカマドの葉すでに秋色

                       (原歌)

 

<添削のポイント>

以前、「山陽道」についてあれこれ述べさせていただいたこともありましたが、今回は

「東北の自動車道」、「街路樹」という名詞(固有名詞、普通名詞)の用い方、読みとり方が、批評のポイントになるかと思います。

 というのは、「東北自動車道」では、「街路樹」はふさわしくないという印象が、ぬぐえないからです。ただ東北「の」自動車道とされていますから、三陸自動車道や仙台北部道路など、規模の小さい自動車専用道路で、「街路樹」と言っても障りのない実景をご覧になったのだろうと、推し量ることはできます。

 しかし、読者一般はそのようには受け取らないのが普通ですから、ここは思い切って実際の固有名詞を使うか、あるいはもっと普遍的、一般的な表現にしてしまうか、明確な選択と工夫が必要かと思います。添削と言うよりは、改作例として、二例をあげておきます。

 

  三陸道そのかたはらの街路樹のナナカマドの葉すでに秋色

                        (添削後1)   

 

  ゆく道のかたへに連なる街路樹のナナカマドの葉すでに秋色

                         (添削後2)

 

 下句の「ナナカマドの葉すでに秋色」は、口語脈で新味のあるものとして、是としました。また改作例の一首目の二句・三句は、もし添削希望作として受け取ったら、「街路樹は傍らにあるもので意味が重複している」と私自身が指摘するかも知れません。練りに練ってのものではなく、視点をひとつお示しした、程度のものとしてお読みいただければ幸いです。

2015.8.14                     作者:中溝幸夫  

   いにしへの修験僧が拓きし登山道白山頂きへの道のりも険し

 

                         (原歌)

<添削のポイント>

 

大きな字余りに挑まれた作品ですが、総計では38音となっており、ここはいま少し、定型に近づけるべき(総計の音数を抑えるべき)努力が必要かと思われます。破調(内在率がある前提で)を積極的に認める読者以外には、総体の字余りが多いだけで全否定されてしまう場合もあるからです。

 下句の10音・8音の字余りは、私は「是」とします。これを生かすためにも、上句はちょっと、考えてみたいところです。

 

 まず、ものすごく単純に上句のみ定型にすると、二句を「僧が拓きし」とすることができますが、これでは下句も生きませんし、作者のご意向もそこにはないでしょう。そこで、「修験僧」を同質、同等の他の言葉に置き換えることで、添削を試みます。

 

                          ↓   

 いにしへの行者が拓きし登山道白山頂きへの道のりも険し

                           (添削後1)  

 

修験者が凛と拓きし登山道白山頂きへの道のりも険し

                           (添削後2)

 

  

 天空をアサギマダラが舞い来る 遠き島よりここ白山へ

 

                           (原歌のまま)

 

「アサギマダラ」と「遠き島」が、この歌の眼目であり、また批評上の注意点です。実は私自身、アサギマダラを大まかに知っていて、「渡り」の習性についてまでは、よく知りませんでした(その意味では、今回勉強させていただきました)。

 もちろん、この作品を読んで、「ああ、アサギマダラとは、遠い島、おそらく台湾あたりから、日本まで飛んでくる蝶なのかな」と、読みとってはいます。今回、Webで調べて勉強したのは、「遠き島」がたしかに台湾であり得るのだという、その確認です。知識としてはゼロに等しい私がそのように読んだのですから、原歌にそれだけの力があること、そして大きく添削をする必要がないことを、感じています。

 ただ、読者みながそのように読みとりうるかという点については、一考の余地があるとも思われます。まず一つ、事実、背景としての「遠き島」がいずこであるのか(台湾でなくとも良いのですが、どこか、アサギマダラの習性を多くの読者がイメージしやすいであろう島の固有名詞を盛り込むなど)、想像させる材料をちりばめる工夫もできるのではないでしょうか。

 固有名詞と普通名詞、個別と一般ということについて、ちがうことをお伝えしたことがあるかも知れません。が、文学作品というものは、大きな矛盾を除いて、一期一会、その刹那ごとにつきつめることがその基本でもあります。

 

 この一首については添削をするのでなく、以上の指摘にとどめさせていただきます。いま一点、前述のことよりは小さな問題ですが、「舞い来る(まいきたる)」という表現からは、「天空より」、舞い来る、というイメージがあることを、補足致します。また旧かなでは「舞ひ」であること、蛇足かも知れませんが。

 

 

    白山に高嶺の花の数多しハクサンコザクラの薄紅も美し

 

                           (原歌)

<添削のポイント>

 

はじめに結句の「美し」について、「うつくし」と読むのか、「はし」と読むのか、その点が気にかかります。「はし」と読むのであれば、四句が9音の(されど「ハクサンコザクラ」が半拍を含むのであまり瑕がない)字余りで、よくまとまっていると言えます(作者註:「美し」は「うまし」と読む意図・・・)。

ただ、上句で白山の高所に数多の高嶺の花があることを言い切り、その中の「ハクサンコザクラ」の薄紅に焦点を当てるという詠みぶりは、作者自身の経験的感懐から、より広く、多くの読者を引き込むところまでの飛翔を望むのには、弱いように思われます。

特殊(個別)から普遍へ赴き、多くの読者を惹きつけるところに、物書きの、あるいは詩歌の醍醐味があるということを、わたくしもともに追ってみたいと思います。

 

                           ↓

 

白山の高嶺に爆ずる花の妙(たへ)ハクサンコザクラの薄紅も佳き 

 

                           (添削後)    

 

 「爆ず(口語でははぜる)」が国語辞典の解説の字句通りではないのですが、「たくさんの花が山の高処に咲きほこる」意をあらわすものとして、読みとってもらえないということはないと思います。参考になさってみて下さい。

 


2015.7.22                   作者:中溝幸夫  

 透かし見る薄紙の如き手触りの白き槿の花びらを揺らし


                           (原歌)

<添削のポイント>

                        

結句「花びらを揺らし」で「余韻、余情」をねらったものかと思います。花びらを「揺ら」す主体は、槿でしょうか、あるいは作者でしょうか。作者だとすれば、一首が口語的に流れてしまい、淡い印象を残すのみとなりますので、主体は槿で、「槿の」の「の」は主格をあらわすもの、と考えてみました。

 

 すると上句の「透かし見る薄紙の如き手触りの」の「透かし見る」に、「槿」をとらえている作者(あるいは人間全般)の「見る」という行為があり、そこから読者の想念が形づくられていきますので、結句のおさまり具合がやや弱いうらみがあります。この点をまず解消するのには、「槿は」と係助詞「は」によって「槿」が主体であることを強め、結びはオーソドックスに終止形にする手段があります。


                          ↓     

 

透かし見る薄紙の如き手触りの白き槿は花びらを揺らす


                          (添削後1) 


 

 しかし、余韻・余情を盛り込み、白く透き通る槿の花びらがわずかに揺れる、という情感を歌い切れているとは言えません。もしかすると逆にここから、原形を推敲なさったのかもしれない、とも思えます。そこで、やや大胆な改作ですが「花びら」は言わぬこととし(上句の表現で花びらであることは言えている、と割り切ります)、次のような例を挙げることができますが、いかがでしょうか。

 

 透かし見る薄紙の如き手触りの白き槿は風に揺れ居り

                           (添削後2)

 

透かし見る薄紙の如き手触りの白き槿は風に揺れつつ

                          (添削後3) 

 

 

 田植え済み水の張られた田んぼにはライムグリーンの風駆け抜ける


                           (原歌のまま)

 

 どんな言葉を用い、どのような付属語(助詞・助動詞)でそれをまとめていくかという微妙なさじ加減を、「言葉の斡旋」と呼んでいます。この作品の情景は、私も大変好きな情景であり、日本の原景のひとつであると思います。どこをどう直す、という指摘(すなわち添削)はないのですが、上句は言葉の斡旋しだいで、さらに磨かれる余地があるように思います。

 

 それだけでは無責任ですから、ひとつ単語を提示させていただきますと、「水張り田(みはりだ)」という言葉があります。広辞苑には出ておらず、Yahoo!などで検索してみると、「田植え前の、水を張った田」というような解説も見られますが、田植え後の田の形容としても、さしつかえはないと思います(私はどちらにとっても良いつもりで、自作の短歌に使ったことがあります)。ご存じであれば、「田植えのあと」をはっきり言うために原歌の表現にされたのかと思いますが、短い言葉を用いて省略を利かせることで、他の素材を盛り込むことも可能になります。一例として、お伝え致します。

 

 

 ここはプール曇りガラスの屋根を抜けて水面に揺れる光のしずく


                            (原歌)

<添削のポイント>

 

 初句「ここはプール」という場の提示に、ひとつのねらいを込めておられるかと思います。しかし、読者によってその評価は、分かれるところでしょうか。新しい、あるいは独自の試み、取り組みをすることは、たいへん重要なことですが、「定型と破調」に大きな成否の境界があるのと同様、新機軸を打ち出す場合にも、困難が伴います。試行錯誤の上に成果がもたらされる過程を、私も通り過ぎました。

 この作品に関しましては、私だったら「場」を「時」に代えて提示すると思います。その添削案を二案、提示させていただきます。なお、作者は旧仮名をご使用でしたでしょうか?それでしたら、旧仮名では「しずく」は「しづく」が正しいので、改めさせていただきました。もし違いましたらお読み捨て下さい。

                           ↓    

 

午後のプール曇りガラスの屋根を抜け水面に揺れる光のしづく

                           (添削後1)

 

初夏のプール曇りガラスの屋根を抜け水面に揺れる光のしづく

                           (添削後2)  

 

                         

2015.7.16                    作者:文ちゃん

蒸し暑い満員電車「どうぞ」言う可愛いい声にそよ風走る


                         (原歌)

                       ↓


蒸し暑い満員電車「どうぞ」と言う可愛いい声にそよ風走る


                          (添削後)

<添削のポイント>

 結句の「そよ風走る」が大変良いと思います。蒸し暑い満員電車でうんざりしているときに、席をゆずる「どうぞ」という、これは女の子さんでしょうか、可愛らしい声にそよ風が走る感覚を覚えた・・・。いい歌想ですね。一点、「『どうぞ』言う」についてですが、私ども関東の人間の語感からすると、ここは、「どうぞ」のあとに「と」を補った方が、おさまりがいいように思われます。一応、添削案としてお示しします。

 もちろん、三句が6音の字余りになってもその方が良い、と考えてのことです。

 

ただ、西日本、近畿から中国・四国あたりでは、この「と」は用いず、「『どうぞ』言う」○○、という表現がふつうであるらしいことは、私どもも承知しています。九州でも、やはりそうなのでしょうか。私(小田原)は両親が鹿児島の出身ですが、「からいも普通語」を聞きかじった程度で、このように微細なところまでは把握しておりません。作者の居住地によって言葉の使われ方に差異がある以上、一概に「『どうぞ』という」が良い、とは、言い切れません。

 

しかしながら、慣例であるのか、限界であるのか、文学の批評も「共通語」を基準として行なわれていることも事実ですので、その意味でも、「添削案」として、上記案はありうるものと言えましょう。要は、特徴のある言葉をいかに生かし切るか、ということが、大事なのだと考えます。

 

 

  猛暑日に娘家族と多摩の森カブトムシ出で暑さ忘れぬ  


                         (原歌のまま)

 

これは添削の必要はないお歌だと思います。娘さんご家族と多摩の森に行かれ、猛暑日だったが、カブトムシを見つけたことで暑さを忘れる・・・。結句の完了の助動詞「ぬ」も効果的です。

 

 

 アドバイス本人のため思えしも逆キレされて波打つ吾は


                         (原歌)

                        ↓

 アドバイス本人のためと思えども逆ギレされて波打つ吾は


                          (添削後)

<添削のポイント>     

  これも結句がいいですね。「波打つ」・・・動揺する、感情が高ぶる、感情の揺らぎを覚える。いろいろなイメージが湧きます。ただ、一首目と同じことが言えるのですが、「本人のため思えしも」についても、「ため」のあとに「と」を補うのが良いと思います(二句が8音の字余りでも、というのも同様です)。

 

また、「思えし」の部分には、次のような(主に文法上の)問題点があります。

 

原型「思えし」で用いられている「し」は、過去の助動詞「き」の連体形で、文語のものです。しかし、「思え」の部分は、「自分にはそう(本人のためと)思えた」ということで、口語における自発のような意味だと思われます。ただ、ややこしいのですが、「思える」は口語での「可能動詞」であり、「思はる」→「思われる」→「思える」として、一語の動詞として独立したものです(思はる、思われる、は動詞+助動詞)。そして、これは「可能動詞」として「可能」の意にのみ用いられるとされていますが、こうしてみると、「思える」には、「可能」と「自発」、双方の意味が、あいまいな境界で含まれていそうですね。

 

もとより文法、とくに口語にはあいまいなところが多いのですが、作者の今回の作品の場合、口語の「思える」と、文語の「き(し)」をあわせて使うことは、避けた方が良いと考える次第です。

 「思えども」は、ストレートに「思う」に過去の「き(し)」を加え、「思いしも」とする手段もあります。また、「逆キレ」ははやりの若者言葉ですが、「逆ギレ」が正確なのでは?と、ちょっと余計な指摘をも含めました。

 

 

 真夏日に父が眠れる靖国に娘家族と平和願いて


                          (原歌)

                         ↓

  真夏日の父が眠れる靖国に娘家族と平和を願う


                           (添削後)

<添削のポイント>

 こうべを垂れたくなるようなお歌です。「靖国に眠る」という感じ方、今の若い方にはピンとこないかもしれませんね。さて、まず助詞「に」が二つ重なっていることが気になります。もう一点、結句の「平和願いて」の収め方だと、うまく座らない、着地しない不安定さがあります。そこで考えた添削案です。

 


  教え子も高齢となり青春の思い出より老後の憂い


                          (原歌)

                         ↓

 教え子も高齢となり青春の思い出よりも老後の憂い


                          (添削後)

<添削のポイント>  

 作者よりお若い教え子の方も、高齢と言われるお年になられているのですね。老後の憂いが話題になるところ、私どもにもなんとも身につまされます。四句が「思い出より」と六音で字足らずなので、「思い出よりも」と、助詞「も」を補いましょう。あとは、少しウイットの効いたよいお歌だと思います。

 

 

 


2015.6.25                     作者:中溝幸夫


 

山道の落ち葉の上の木漏れ日を踏みしだきつつひたすらに歩く

 

                       (原歌)

                      ↓

山道の落ち葉の上の木漏れ日を踏みつ眺めつひたすらに歩く

 

                        (添削後)

<添削のポイント>

 落ち葉ではなく「木漏れ日を踏みしだ」くところに、良い着眼と決意(作歌に対する)とが読みとれます。上句の「の‐の‐を」のリズム、山道の「ち」と落ち葉の「ち」の韻も、よく生きています(特に後者は、最初から狙えるものではなく、「良くおさまった」という成り立ちで、いいと思います)。そして下句も、よくまとめられているのですが、四句の「踏みしだきつつ」にのみ、再考の余地がありそうです。

 というのは、「踏みしだく」を広辞苑で調べてみると、「①ふんでこなごなにする。②強く踏んでしわにする。」とあり、踏みつける行為を継続する意が、そもそもその語中にあるものと受けとめられます。その「踏みしだく」と、継続・反復の意である接続助詞「つつ」が重なるところに、疑問を感じる読者もいることでしょう。この見地から、示した添削案です。

 

野薊の群れ咲く里の山道の紫恋ひて故郷を訪ふ(とふ)

 

                          (原歌)

                        ↓

野薊の群れ咲く里の山道のむらさき恋ひて故郷を訪ふ(とふ)

 

野薊の群れ咲く里の山道の紫を恋ひ故郷にあそぶ

 

                           (添削後)

<添削のポイント>

「紫“を”恋ふ」の格助詞「を」を省略しているところが、ちょっと気になります。散文と韻文では、省略の必然性を含めて事情の異なる部分も大きいのですが、小田原自身の実例に即してお話しします。「足摺岬」という文章で、次の一文を書きました。

 しかしこの南の国の小麦色の女性車掌は、動作もきびきびしていて中々かわいらしい。

 四半世紀前の若書きのもので、申し訳ありません。当時はこれで問題ないと思っていましたが、近ごろこの文を読んだり、思い出したりするにつけ、やはりこれは小麦色の「肌の」女性車掌であるべきだと、自分ながら思うところです。

 表現形式も、対象も全く異なりますが、「紫恋ひて」の四句に、この拙文の例と同様の「何か足りない感じ」を、受けるのです。これは、「むらさき」とかな書きにするか、「紫」のあとに「を」を補うことで、解決できるのではないでしょうか。

 

麦秋のまじかきときに畔歩く黄のキャンバスに影を動かし

 

                           (原歌)

                         ↓

麦秋のまぢかき畔を歩みゆく黄のキャンバスにわが影ゆるる

 

                            (添削後)

<添削のポイント>

まず、かな表記について指摘させていただきます。新かな(現代かな遣い)、旧かな(歴史的かな遣い)を問わず、「まじかき」は「間近き」なので、「まぢかき」と表す必要があります。

 

 また結句について、倒置法を用いた上での連用形止め(連用中止法)を否定するものではありませんが、原歌では因果関係が完結しすぎている感があり、ふくらみが欲しいように思われます。結句で余韻を生むために、このようにしてみました。終止形でまとめるなら、「わが影は揺る」とするところですが、それよりも、特に係り結び等の因果関係はなくても連用形で止めるこの形で、よいと思います。原歌とは、狙うところが少し変わってきますが、ご一考頂きたいと思います。

 

2015.6.25                                                                              作者:文ちゃん


 

夏空に教え子たちとゴルフして50年前にタイムスリップ

 

                    (原歌)

                    ↓

 

夏空に教え子たちとクラブ振る50年前にタイムスリップ

 

                     (添削後)

 

<添削のポイント>

のびやかないい作品です。ただ「ゴルフして」と上句が下句に続き、「タイムスリップ」という体言で止めると、流れが唐突に止まってしまう感があります。ここは上句で一度切った方がいいと思われますので、「クラブ振る」と表現してみました。 

 

初夏の朝妻と二人で畑仕事鶯がきて愛を奏でる

 

                      (原歌)

                      ↓

 

初夏の朝妻と二人で耕せば鶯がきて愛を奏でる

 

                       (添削後)

<添削のポイント>

なんとも羨ましい光景です。鶯まで作者と奥様の仲の良い畑仕事を祝福しているようです。ほとんど添削の必要はないのですが、「畑仕事」の六音がやや気になります。ちょっと語感が異なりますが、「耕せば」に改めてみました。  

  


2015.5.29                                                                              作者:文ちゃん

①ジャカランタ、アンテナ被いしザアーザアー画 気になりつつも花に魅せられ

 

                       (原歌)

 

                    ↓

ジャカランタ、アンテナ被いてザーザー画 気になりつつもテレビより花

 

                        (添削後)

<添削のポイント>

 

 意味はよく分かる作品です。ジャカランタ、またはジャカランダは高木科の、密に繁茂する植物。そのジャカランタにテレビのアンテナがおおわれてしまい、砂嵐のようなザーザー画面になってしまった。にもかかわらず、気になりつつも花に魅せられて切ることもできない・・・。面白い歌想です。ただ、「被いし」の「し」は過去の助動詞ですので、「被いて」といたしましょう。「ザアーザアー」は面白いオノマトペですが、六音になってしまうので、残念ですが、「ザーザー」と四音にし、「画」を生かしましょう。結句の「気になりつつも花に魅せられ」は文字通り魅力的なのですが、「ザーザー画」をテレビとはっきり分からせた方がいいと思います。そうしたことを考えた上での添削案です。

 

 ② 早い朝脚立に乗りて梅とれば子らに送ると写メする妻が

 

                        (原歌)

                    ↓

早朝に脚立へ乗りて梅とれば子らに送ると妻が写メする

 

                       (添削後)

<添削のポイント>

 

お子さんに送るための、梅の実を取る作者の姿を写真に撮られる奥様、取った梅の実もお子様に送られたのでしょうか?暖かな視線が伝わってきていい作品です。ただ、「早い朝」の表現は少しこなれていない気もします。「早朝」でよいのでは?それと結句の「写メする妻が」の倒置法ですが、倒置法が威力を発揮する詠み方もあるのですが、ここは、少し安易に使ってしまったかな?という印象です。「妻が写メする」でよいのではないでしょか。

 

③ 遺児そろい戦後70年高野山父への感謝平和を願いて

                      (原歌)

                     ↓

 

遺児そろい戦後70年のいま 高野山にて父に感謝す

 

                       (添削後)

<添削のポイント>

 お父様を戦争で亡くされ、平和を願うお気持ちがひしひしと感じられます。ですが、少々「盛り込み過ぎ」で、この一首にこれだけの歌材を盛り込むのは少し無理があるかと思います。「父への感謝」と「平和を願いて」どちらかを諦めざるを得ません。そこで、「父への感謝」の方を撮りました。

 

かなり大胆に原歌を改めました。ご不満かもしれませんが、できるだけ作者のお気持ちを大切に添削したものです。

 

 ④ ヤダヤダと3歳の俊あやすことままならぬ吾妻に目くばせ

 

                       (原歌)

                      ↓

ヤダヤダと3歳の俊むずかりてままならぬわれ妻に目くばせ

 

                        (添削後)

<添削のポイント>

 

 

微笑ましい光景です。お孫さんをあやしてもむずかってしまう、そこでアイコンタクトで奥様に助けを求める・・・。いいお歌です。ただ、「ヤダヤダと」が「あやすこと」に着地しない感もありますので、その点を改めました。

また、「吾」「と「妻」、漢字が重なるので、「われ」と仮名表記にしました。

 

 

2015.5.22                                                                                     作者:中溝幸夫

    緑なす山陽道を抜け来れば処どころに桐の花ひらく

                 (原歌)

<添削のポイント>

 

 一読して、若山牧水の、<幾山河・・・>の歌を思わせるものがあります。しかし結句で「桐の花」という点景に焦点を絞り、独自の情景を得ていますね。山の緑が濃い中に桐の花がところどころひらいている、という明るさが、印象的です。

 

 「処どころ」の用字は、苦心なさったものと思います。率直に私(小田原)の好みでは、または自分の歌の場合、「ところどころ」と、すべてをかなにするかと思いますが、ここは作者が「選び抜いた」表現であるならば、好み、センスの部分のことですから、読者の感覚ではなく、作者の信念が優先されるべきところだろうと考えます。

 

 他に、この作では2点、気になったことがありますので、指摘したいと思います、この作者の作品は、投稿時からきびしい言葉選びを経たものでありますから、当方も精一杯、真正面から正対した上での指摘です。その2点とは、「山陽道」という大景と「桐の花ひらく」との対比、そして、結句の八音についてです。

 

 じつは、ここまで批評を進めて来て、「山陽道」は「山陽自動車道」のことかも知れない、と気がつきました。はじめは、漠然と「中国地方の道」と感じ、山あいの道を「抜けて来た」ことから、牧水の歌を思ったのです。そしてまた「山陽道」という言葉は、古く五畿七道の一道として、播磨から長門までの広い地域、現在で言えば「山陽地方」を指すものでもあります。この「広い地域」の「山陽道」を読者が先にイメージしてしまうと、「桐の花」の点景が、ちょっと像を結びにくくなるように思います。

 

 結句の八音については、推敲を重ねられた上のことと拝察しました。ここで、字余り=破調について、(3)とあわせて扱わせていただきたいと思います。

 

(3)とりどりの緑重なる山襞に瑞々しき地球を改めて思ふ

 

 (1)「緑なす」の歌の結句の字余りは、「八音」です。そして(3)「とりどりの」の歌の字余りは、四句が「十音」、五句(結句)が「八音」です。ここで端的に申し上げて、私(小田原)としてはどちらの字余りに好感が持てるかと言うと、後者になります。

 この問題にいわゆる「公式」はないのですが、字余りを字余りで受ける時に、あるまとまりが生じるということを、経験したことはあります。自作の引用で恐縮ですが、お伝えしたいと思います。

 

 かつてわれのすべてがありし駅の跡にしろじろとアメリカ花みづき咲く  漂情

 

 初句、三句が六音、そして四句が九音の字余りです。上句が五七五の十七音定型なら、四句の九音は受け入れられにくいと思いますし、四句から結句にかけて「アメリカ花みづき」を句割れ・句またがりにしたことも、歌会参加者から、「この歌の字余りはあまり気にならない」と支持されたことの一因だろうかと考えます。

 

 もちろん、これは「一例」に過ぎないのですが、(1)の結句のみの字余りより、(3)の十音・八音の字余りを、私はより応援したいと思うのです。

 

 ただ、(1)の作品に対するここまでの批評は、すべて、「山陽道」の解釈の違いによって生じたことのようにも思われます。「山陽自動車道」として「山陽道」を受けとめると、結句の八音をも含めて、よい出来栄えの歌であると感じられます。

 

 ある言葉(ここでは「山陽道」)の解釈で、受けとめられ方が違ってしまう、ということを避ける案として、(1)の添削を試みます。

 

緑なす山陽道を走り来つなだりにほどろ桐の花見ゆ

 

                      (添削後)    

 

 原歌には原歌のよさがありますが、こうすることで、「山陽道」の意味は限定できる(山陽自動車道ならば)と考えます。「なだり」は「斜り」、「ほどろ」は先日の私どもの歌会で石井が用い、批評でも取り上げましたが、ここでは「まばら」の意で使えるかと思います。

 

 つづいて順序が前後しますが、(3)の鑑賞をしてみます。

 

(3)  とりどりの緑重なる山襞に瑞々しき地球を改めて思ふ 

 

                       (原歌のまま) 

 

 この歌は、下句が出色のものと言えます。情景は(1)とほぼ同じか、時間的に近接している、中国地方の山あいのそれだと思われますが、こちらではしたたるような山の緑を、「瑞々しき地球」と大きくとらえ、その大きさを、先述した十音・八音の破調がどっしりと受け止めています。また「とりどりの緑」が、桜の季節から新緑へ移行する時期の山の姿を、あざやかに描いています。濃い緑の中にちらばる明るい薄みどりの木々の色合いまで、目に浮かぶようです。この作品は、添削の必要がない、完成された作品でしょう。

 

 

            山道に散り敷く桜の花びらがさながら満点の星屑にも似て

                         (原歌)

 

<添削のポイント>

 

 最後になりました。この作品は、(3)とは逆に、下句に再考の余地があります。短歌一般のこととして、「・・・・・て」と、接続助詞の「て」で一首を締めるのは、あまり好ましくないと言われます。言い切ったあとに余韻、余情を生むのでなく、流れて視点が定まらないためだろうと考えます。

 

 また、短歌は三十一音の短詩ですから、直喩で「似る(似て)」「ごとし」などの語を使うのは、字数(スペース)の点からも、もったいないという点も指摘できます。

 

 これらのことから、原歌の意を活かして添削を試みたのが、以下のものです。

 

              山道に散り敷く桜の花びらがあたかも満点の星屑かと見ゆ

 

                          (添削後)

 

 「さながら」も「あたかも」同様、直喩(「ごとし」など)を導く呼応の副詞ですが、「見ゆ」を用いるためには、語調が強いのでここでは適当だろうと考えました。また、より「隠喩」の形で言い切ってしまう方法もあるでしょう。

 

山道に散り敷く桜の花びらが美()しきよ満点の星屑と見ゆ  

 

                           (添削後)

 

 以上が今回の作品に対する批評、添削です。

 

 

2015.4.13                                                                                    作者:中溝幸夫

この作者は、五句三十一音に歌材を収める、という点では十分なものをお持ちであり、今回も添削というよりは、歌全体の「ゆとり、ふくらみ」、あるいは「あそび、たわみ」を取り込んでゆかれることで、さらに作歌の幅が広がるであろうという観点から、ご提案をさせていただきました。

 

     ブナの樹の冬越しの枝芽吹く春山麓の森に残雪在りて

 

                       (原歌)

                   ↓

 

   ブナの樹の冬越しの枝の芽吹く春山麓の森に残雪在りて

 

                        (添削後)

<添削のポイント>

最初に記したとおり、「三十一音におさめる」という意味では「ここを直さなければ」というものはありません。ただ読後感として、

1、「冬越しの枝」「芽吹く春」が、ちょっと並列のような印象を受けること。

2、すべての歌材が「五七五七七」にまとまりすぎていて、ふくらみに欠けること。

が挙げられます。そこで、助詞を一音挟んだのが添削例です。そのことで、ふくらみや余韻がでると思われます。

 

     山深きブナの巨木の在るところエンレイソウの花育ちおり

 

                        (原歌のまま)

 

この作品に関しては、先述の点を踏まえても、添削の必要はないと思われます。「山深き」と「エンレイソウ」がよく響きあっています。

 

      八重桜咲く山麓の春景色遥かに見ゆる大山の雪

 

                         (原歌)

                    ↓

  

   八重桜咲きて山辺の水ぬるみ遥かに見ゆる大山の雪

 

                          (添削後)

<添削のポイント>

よく三十一音にまとめられておりますが、一首全体が「春景色」を描いており、麓は春の景でありながら、遠い山のいただきは雪を残している、その「叙景」そのもので、作者の述べたいところを言い切ることが適当ではないかと思います。それを踏まえての添削案です。

 


2015.3.20                    作者:文ちゃん

     毎木は孫らとプールバアバ自慢カレーライスで幸せいろに

 

 

                       (原歌)

                ↓

木曜は孫らとプールバアバ自慢のカレーライスで幸せいろに

 

                        (添削後)

<添削のポイント>

とても幸せそうな情景が伝わってきます。「毎木」は「木曜」でも読者には十分伝わると思いますので、省略語はできるだけ避けたほうがよいでしょう。また、「バアバ自慢」と頑張って六音に収められましたが、やや舌足らずな感じも致しますので、ここは七音を恐れず、助詞「の」を入れて、「バアバ自慢の」とした方がよいと思います。

 

     古希過ぎの同窓会物忘れ病気の話題楽しく哀れ

 

                        (原歌)

                ↓

古希過ぎの同窓会は物忘れ病気の話題やがて寂しき

 

盛り上がる同窓会は物忘れ病気の話題やがて寂しき

 

                         (添削後)

<添削のポイント>

まず、「同窓会」は六音なので、助詞「は」を補い、「同窓会は」とします。「哀れ」「悲し」「寂し」などの詠嘆の言葉は、言わなくても感じられるようにするのが短歌のテクニックの見せ所です。添削案一は、「やがて」ということで、「その前は楽しかった」ことを暗に示せると思い、用いてみました。二案は、「古希過ぎの」と言いたいところですが、「物忘れ病気の話」で、お年を召された方の会話とわかりますので、考えたものです。

 

     寒椿真っ赤に燃え咲き朝日浴びその名のごとし浄蓮の滝

 

                          (原歌)

                 ↓

寒椿真っ赤に燃えて朝日浴ぶその名のごとし浄蓮の滝

 

                         (添削後)

<添削のポイント>

「寒椿」「燃え」「咲き」「朝日」「浴び」「浄蓮の滝」と歌材が多いので、少し整理します。「咲き」は「寒椿が真っ赤に燃え」と言った時点でわかると思いますので、「寒椿真っ赤に燃えて」としてみました。「その名のごとし」は「寒椿」にかかるのか、「浄蓮の滝」にかかるのか少し分かりにくいです。ただ、「その名のごとし」が「寒椿」にかかるとすると、「浄蓮の滝」が浮いてしまいます。そこで、作者は浄蓮の滝を観に行って、寒椿を見た。そして浄蓮の滝は、寒椿が表すように、そして「浄い蓮の滝」というように、清々しく美しいものだと感じた・・・と、解釈いたしました。また、寒椿の赤が、浄蓮の滝の淨らかさを際立たせている、とも取れます。そうすると「浴び」ではなく、三句で終止形「浴ぶ」とし、ぴしりと切ったほうが分かりやすいと思います。

 

今日は新メンバー、中溝幸夫さんの作品をご紹介します。

 

2015.3.14             作者:中溝幸夫

 

  ① 木曽川の蛇行してゆく彼方には 白く輝く山見ゆるなり


                               (原歌)   

                    

                  ↓   

      木曽川のくだり来れる彼方には白く輝く山見ゆるなり

 

    木曽川の蛇行してゆく彼方には鈴鹿の嶺ぞ白く輝く

 

                      (添削後)

 

<添削のポイント>

大きな情景を、しかも美しく描いておられます。中部地方の景観として、たいへん魅力的な情景と思います。ただ、「川の流れ」は,上流から下流へ向かうものと、「言葉」が語ってしまいます。実際の川の「水の動き」を度外視すれば、「蛇行してゆく」はるかかなたに、源流部の白い雪山が姿を見せていて、不思議はないのですが、読みなれた読者には、この点で「違和感」が生じるでしょう。

 あるいは、「白く輝く山」とは、養老山脈か鈴鹿山脈でしょうか。そうであるならば、上記の批評は「的外れ」になりますが、「白く輝く山」と言う言葉から、中央アルプス、またイメージとして北アルプス、あるいは御嶽を想う読者も、少なからず存在することでしょう。添削その一は、山が上流の山である場合に対して、その二は下流の山である場合に対してです。特にその二は、固有名詞を用いることで、視点と川の動きを明確にするねらいがあります。

 

     移りゆく車窓に見ゆる景色には 山懐の村に積む雪

 

                       (原歌)

 

                  ↓

 

    移りゆく車窓にしんと映ずるは山懐の村に積む雪

 

                       (添削後)

<添削のポイント>

この作品は、三句の「景色には」がポイントとなります。これをそのまま生かすならば、結句は体言止めでなく、動きのある表現がよいでしょう。ただ、「山懐の村に積む雪」という下句の描写がとても良いので、三句を動かしてみました。

 

     直江津へ向かふ列車を待つホーム 風の冷たさに北国ぞ知る

 

                        (原歌)

 

                   ↓

 

    直江津へ向かふ列車を待つホーム風冷たきに北国を知る

 

                         (添削後)

<添削のポイント>

上句は問題ないと思います。ただ、四句の「八音」と、「北国ぞ」の係助詞「ぞ」を用いた係り結びが、やや効果的でない気がします。そこで、「風つめたきに」と七音でまとめ、「北国を」としてみました。

 

 

 

 

 

 

 

2015.2.16                                                         作者:文ちゃん


 

     単身の夫気づかいつ子育てや仕事チョボラに駆ける英理子は

 

 

                       (原歌)

                ↓

 

  単身の夫思いつつ子育てや仕事ボランティアと駆ける英理子は

 

                        (添削後)

<添削のポイント>

今回はご家族がテーマとのこと。「気づかいつ」の「つ」(完了の助動詞)で、ぴしりと二句切れにしたところは良いのですが、三句以降のつながりから、「英理子」様は単身赴任のご主人を気づかい「つつ」子育て、お仕事、ボランティアに駆ける、なのだと思われます。内容的には二句切れでなくともいいのですが、「気づかいつつ」では字余りになってしまいますので、「思いつつ」としてみました。「チョボラ」は「ちょっとボランティア」の意。便利な省略語ですが、短歌に使うのは、少し俗っぽくなってしまいます。ですから、せっかくきっちり定型に収めていますが、あえて字余りを覚悟して「ボランティア」としました。

 

      今でしょと10数年の教師やめ子らの母(もと)へと二女悩めしも

 

                        (原歌)

                ↓

 

今でしょと十数年の教師やめ子らの母へと還らんとする

 

                         (添削後)

<添削のポイント>

「今でしょ」ははやり言葉ですが、作者のユーモアと考え、ぎりぎり「あり」とします。

「10数年」は漢数字の方が良いと思います。母に(もと)とルビを振るのも厳しいところです。なくても(「はは」と読んでも)十分に意は伝わりますので、添削案ではルビを取ってみました。結句「悩めしも」ですが、「今でしょ」の初句の決意と「悩む」が少し整合性に欠けます。ですから「還らんとする」に改めました。また、「悩めし」については、文法上、次に述べる通りの不具合があります。

まず、「し」は、過去の助動詞「き」の連体形です。そしてこの助動詞「き」は、前にくる動詞の連用形に接続する決まりがあります。いっぽう、「悩む」はマ行四段活用の動詞です。以下のように活用します。

 

「悩ま」-ず 「悩み」-たり 「悩む」 「悩む」-とき 「悩め」-ども 「悩め(!)」

 

活用形は、順に、未然―連用―終止―連体―已然(口語では仮定)-命令 です。

というわけで、「悩めし」は、「悩みし」と修正する必要があります。またご家族のことを歌った歌に「二女」の名称が抜けてしまうのは考えどころですが、一首にあまり多くの歌材を盛り込むのは無理があるので、あえて取ってみました。

 

    3女真紀2歳、1歳の子育てに苦闘しつつもかわいい写メが

 

                       (原歌)

 

                 ↓

 

  三女真紀2歳、1歳の子育てに苦闘しつつもかわいい写メ寄す

 

                        (添削後)

<添削のポイント>

二首目で「二女」とあるので、ここは漢数字で「三女」としたほうが良いと思います。「2歳、1歳」は八音で字余りですが、「いっさい」の「いっ」が促音ですので、気になりません。作者は短歌づくりにも慣れてこられたので、結句の収め方もそろそろ留意されても良いかと思います。「写メが」という収め方はともすれば中途半端に感じられます。八音で字余りですが、「写メ寄す」としてみました。

 

    誕生日薄紅色のシュクラメン妻頬よせて恋色染まり

 

                         (原歌)

 

                 ↓

 

  誕生日薄紅色のシュクラメン妻は頬よせ恋色に染む

 

                          (添削後)

<添削のポイント>

とても素敵な歌だと思います。ただ、下句が少しつづまり気味になっているので、「妻は頬よせ恋色に染む」としてみました。「染む」は古語ですが自動詞なので、「染まる」と同義です。三首目の結句のすわりを、ここでも考慮してみました。

 

    孫の萌絵体操競技1位なり冷たき床に笑顔弾ける

 

                         (原歌のまま)

添削の必要のない歌です。ただ、「冷たき」と感じていらっしゃるのは、お孫さんの萌絵さんでは?重箱の隅をつつくような批評ですが、それをご覧になっている作者が「冷たい」と感じていらっしゃるような言葉運びであることに、少し不合理を感じます。それとも、作者も冷たい体育館に座って見ていて、「冷たい」と感じておられるのでしょうか。歌会などに参加すると、そういうところに突っ込まれることもある点、頭の片隅に置いておいて下さい。

 

                        

2015.2.11                 作者:綾

今日は新メンバー、綾さんの作品のご紹介から始めたいと思います。

 

鈴なりのレモン輝く雨上がり小鳥にぎわうおもいのままに

 

                      (原歌)

              ↓

 

鈴なりのレモン輝く雨上がり小鳥唄えりおもいのままに

 

                      (添削後)

<添削のポイント>

素敵な歌だと思います。レモン、雨上がり、小鳥といった歌材が瑞々しくフレッシュな印象を与えます。下句の「小鳥にぎわうおもいのままに」の倒置法もいいです。ほとんど添削の必要はないのですが、一点、「にぎわう」が気になりました。辞書には「にぎわう」は自動詞、他動詞両方の用い方が記載されています。ここはもちろん自動詞として「にぎやかになる」と捉えられ、文法的に、また辞書的な意味でも問題はないのですが、語感として「にぎわう」は広い範囲で、大きく自然発生的に活気があるというようなイメージだと感じられます。そして一羽ずつの小鳥たちが「おもいのままに」さえずっている眼前の景との間に、ややそぐわない感じが生まれてしまいます。ですから諸々を考えあわせた上で、「小鳥唄えり」としてみました。

 


2015.1.21                                                       作者:小里


 

 百人の雅(みやび)な歌札囲いつつ童ら握る掌汗(たなごころあせ)


                                               (原歌)

                   ↓

 百人の雅(みやび)な歌札囲いつつ童ら握る掌(てのひら)の汗


 百葉の雅びな歌札囲いつつ童ら握る手のひらの汗


                        (添削後)

<添削のポイント>     

「百人の雅な歌札」とは百人一首のことでしょう。手に汗握りながら子供たちが夢中になっている様子が、とても技巧的に表現されています。作者の工夫がよく分かります。造語「掌汗」は頑張りましたね。このままでも良いとは思います。ただ、多少無理があるような気もします。「掌(てのひら)の汗」でも十分表現したいことは伝わると思います。今一点、「百人の雅な歌札」は百人一首のことだとすぐわかるので、ひとつの添削案として示しますと、「百枚」のものですので「百葉」と表現してみました。また原歌では「雅」ですが、「雅び」と仮名を送ることによって、ルビが不要になります。そこで考えたのが二案です。しかしながら、全体として造語を工夫なさる姿勢は大事ですし、作者のチャレンジにまずはエールを送りたいと思います。

 

2015.1.25                                               作者:文ちゃん


 

    孫瞭の中学入試合格に小躍り涙妻の瞳も

 

                   (原歌)

              ↓

 

孫「瞭」の中学入試合格に小躍りしたり妻も涙す

 

吾(あ)も妻も瞳うるませ小躍りす瞭十二歳合格の報

 

                 (添削後)

<添削のポイント>

お孫さんの中学入試合格に喜ばれるお姿が良く表れています。ただ、「孫瞭」では、お孫さんの名前だと初読で判る読者は少ないかもしれません。最初の添削案では、瞭に「」をつけてみました。また下句がやや盛り込み過ぎなので、「小躍りしたり妻も涙す」としてみました。

また、「孫」という名詞を出さず、「瞭」というお名前を生かすのに、おおきく動かしてみたのが二案です。

 

    先生の目から鱗の添削に短歌つくり苦しくも楽しき

 

                 (原歌)

            ↓

 

師の添削 目から鱗が落ちにけり短歌を詠むは苦しくも楽し

 

先生の納得のいく添削に短歌を詠むは苦しくも楽し

 

            (添削後)

<添削のポイント>

「目から鱗」というのはいわゆる慣用句です。短歌ではあまり使わない方がいいと思います。とくに略式では、歌の世界と通俗的な会話表現との境界がうすれるきらいがあります。会話的な慣用表現をいかに短歌形式に盛り込むか、そこに短歌を詠む妙味があります。

下句は句またがりで、八音、七音ととれなくもないですが、少し無理があるように思います。また結句の「楽しき」は、終止形「楽し」でよいでしょう。それらを考慮し、「目から鱗」を活かして考えたのが一案、原歌に即して考えたのが二案です。

 

    五家族の忘年会でさまざまな家のありよう見え隠れして

                                             (原歌のまま)

この歌は添削の必要はありません。とてもいい着想の歌だと思います。子であっても、それぞれに家族を持ち、家を構えるとさまざまなありようが見え隠れする・・・。良く分かります。短歌を作るときには「読者の共感を得る」という注意点があります。もちろん読者におもねったり媚びたり、ということではありません。詠んだ歌に、読者が「なるほど、そうだなあ」という共感を持つ。そんなことにも留意して短歌づくりの参考になさるとよいと思います。その点、この歌は十分読者の共感を得られると思います。

 


2015.1.14                                                                   作者:文ちゃん

 ①    寒い朝孫の野球応援に駆ける薩摩路水仙咲きて

 

 

                    (原歌)

                ↓

 

  寒い朝孫の野球の応援に駆ける薩摩路水仙咲きて

 

                    (添削後)

<添削のポイント>

とてもよい歌想だと思います。特に、下句がおおらかな薩摩の光景を捉えていて良いと思います。ただ二句、三句の「孫の野球応援に」は六音で字足らずなので、「孫の野球の」としてみました。また、三句は「駆ける」で切れるのか、下句へ続いて行くのか読者は迷うところだと思います。上句で切れるなら、「駆ける」のあと一字アキにするといいと思いましたが、「薩摩路を駆ける」と取ったほうがより歌が生きると解釈し、あえて添削案にはしませんでした。

 

    新年に8人の孫らそろい来て一人っ子の吾戦死の(亡き)父思ふ

 

                      (原歌)

                 ↓

 

  新年に8人の孫そろひ来て一人つ子の吾戦死の父思(も)ふ

 

                      (添削後)

<添削のポイント>

作者のお孫さんやお父様を想う気持ちが良く表れている歌だと思います。ただ、「8人の孫ら」は、8人と言ったところで複数とわかるので、あえて八音にしなくても、「8人の孫」で十分だと思います。また「戦死の」のあとの(亡き)は「戦死」にかかるルビだと思われますが、戦死と言った時点で亡くなられたことは分かるので、むしろ結句の「思ふ」に「(も)ふ」とルビを振り、ぎりぎり八音で収めるのがよろしいかと思います。また結句だけ旧仮名遣いになっているので、一首まるごと旧仮名遣いでまとめてみました。

 

    古希過ぎてマジック短歌にヨガ習い新しき年ときめく吾は

                    (原歌のまま)

 

これは添削の必要のない歌だと思います。結句の「ときめく吾は」の収め方も良いと思います。古希を過ぎて、マジックに短歌にヨガと、挑戦なさる作者のバイタリティは素晴らしいです。

 

 

2015.1.3                 作者:みっちゃん

   在りし日の祖母の面影想い出し幼き頃の我にかえれり

 

 

                   (原歌)

                ↓

  在りし日の祖母のおもかげ顕れて幼き頃の我にかえれり

 

                   (添削後)

 

<添削のポイント>

「面影」は「想い出す」よりは「顕れる」「立ち返る」のほうが、言葉どうしの座りがいいように思いますので、「顕れて」としてみました。また漢字の重なりを避けるために、「面影」を「おもかげ」と仮名表記にしました。

 

   脳トレの問題とけず何度も何度も四苦八苦して挫折するなり

 

 

                   (原歌)

 

                ↓

  脳トレの問題とけず幾たびも四苦八苦して挫折するなり

 

                   (添削後)

<添削のポイント>

三句目が「何度も何度も」、八音と大きく字余りになっていましたので、「幾たびも」と、すっきり五音でまとめました。

 

 

   夜明け前ふと目がさめて想い出す遠い昔の幼き日々を

 

 

                   (原歌)

 

                ↓

夜明け前ふと目が覚めて想い出づはるか昔の幼き日々を

                  (添削後)

 

<添削のポイント>

文語と口語が混ざっていますので、作者の格調高いイメージを生かして、「想い出す」を「想い出づ」、そして「遠き昔」としたいところですが、「幼き」の「き」とぶつかってしまうので、「はるか昔」としてみました。

 

この作者は一定の「格調」のようなものをお持ちです。語彙のことなど、まだまだ考えるべきところはありますが、とにかくまず歌数を積み重ねることが大事だと思います。それにつれて語彙も増えることでしょう。

 

 

2014.12.14                                                     作者:みっちゃん

    和希よりもらいし土産嬉しくて何度も何度も出したり入れたり

 

 

                     (原歌)

                  ↓

 和希よりもらいし土産うれしくて幾度も幾度も出しつしまいつ

 

                      (添削後)

<添削のポイント>

「和希」とはお孫さんのお名前でしょうか。お土産をもらった作者のうれしさが良く出ています。「土産」と「嬉」と漢字が重なりやや読みづらいので、「うれしくて」とひらがなにします。「何度も何度も」は散文調の言い回しですので、「幾度も幾度も」にしてみました。さらに、「出したり入れたり」は字余りで、やや俗っぽい言葉のように思われますので、「出しつしまいつ」と改めました。

 

     毎日の足の痛みにたえられず今日も一人でなげいてばかり

 

                     (原歌)

                ↓

 

 毎日の足の痛みにたえられず一人の今日を畏るるばかり

 

                      (添削後)

 

<添削のポイント>

詠嘆の一首です。ただ、原歌のままだと、自分の感情を散文的に述べるにとどまってしまいます。下句を少し工夫して、「なげく」とはやや意味が異なってしまいますが、「一人の今日を畏るるばかり」としてみました。

 

    一人居の寂しき夜がやって来る今日も一日何事もなし

 

                      (原歌)

 

一人居の寂しき夜が近づきぬ今日も一日何事もなし

 

                       (添削後)

<添削のポイント>

「寂しき」は文語ですので、「やって来る」の口語が混在していけないということではないのですが、ややそぐわない気がしますし、歌には緩急もしくはメリハリが欲しいです。そこで「近づきぬ」としてみました。下句はこのままでよろしいでしょう。

 

 

 

 

 

平成27年の年が明け、<芽吹く言の葉>も活気づいてまいりました。今日は新メンバー「小里」さんの作品を紹介させていただきます。、

 

 

2015.1.5                                                     作者:小里

 

 ようようと初めて言の葉紡ぎたる吾子の筆先清水のごとし

 

 初めて紡いだ「言の葉」は、どのような内容だったのでしょうか。言葉を紡いだお子さんの姿、優しく見守るお母さんの姿、いずれもが、微笑ましく、かつ幅広く受けとめられます。「筆先」が「清水のごとし」という結句に、お母さんの歓びもみずみずしく表現されています。

 

 <芽吹く言の葉>では、添削希望の有無、またホームページ掲載の可否にかかわらず(いずれもご希望に応じます)、ひろく短歌の研鑽、発表の場を求める方々の作品を募集しております。年が明けてから、「非掲載・添削のみご希望」の方からも詠草をお寄せいただいております。「短歌添削のご案内」の項をご確認の上、お気軽に作品をお寄せ下さい。

 

 

2014.12.25                 作者:文ちゃん


 

    朝早く2歳の俊太ジイージジイジ一緒にあそぼとスマホの向こう

 

                       (原歌)

               ↓

朝早く2歳の俊太ジイジジイジー、一緒にあそぼとスマホの向こう

 

                       (添削後)

<添削のポイント>

まず、2歳のお孫さんとのやりとりが微笑ましく、楽しい歌だと思います。

ただ、お孫さんの口ぶりそのままなのかと推察して、本来ならこのまま使いたいところですが、「2歳の」→四音、「俊太」→三音、「ジイージ」→四音、「ジイジ」→三音となっており、四、三、四、三と、音韻が単調になってしまう点が少し気にかかります。そのため、

「ジイジジイジー、一緒にあそぼ」としてみました。

 

 

    寒い朝笑顔さざんか薄紅にメジロ舞いおり穏やかなりぬ

 

                        (原歌)

                ↓

薄紅に笑むさざんかにメジロ来て寒き朝(あした)も穏やかとなる

                      

 (添削後)

 

<添削のポイント>

 すこし大きく動かしてみました。「笑顔さざんか」は固有名詞とのことですが、「薄紅」という「色」にメジロが舞いおりて来るという表現と、形容動詞「穏やかなり」(状態を表す)に完了の助動詞「ぬ」がつくという点に、疑問があるためです。固有名詞を生かして原歌のままとする場合でも、「寒い」は「寒き」とするのがよいでしょう。

 

 

    古希過ぎてマジック習いし孫たちに初の公開ネタバレバレか

 

                        (原歌)

                ↓

古希過ぎてマジック習い孫たちに初の公開ネタバレバレか

(添削後)

 

<添削のポイント>

三句「習いし」の「し」は過去の助動詞「き」の連体形ですから、連体形の係り受けからすると、習ったのが「孫」となってしまいます。また、二句を八音にすることを避け、「し」を取りました。

 

 

    孫たちとプールで泳ぎ帰り道アイスクリームと十六夜の月

                            (原歌のまま)

 

アイスクリームを頬張ってお孫さんたちとプールから帰るとき、十六夜の月がみている、

というのはとても抒情的ないい歌想だと思います。「十六夜の月」の体言止めも、よく効いています。

2014.12.3                 作者:文ちゃん


 

     北海道ニシンサケホッケホタテカニそのとき時の御殿がありぬ

 

                  (原歌)

             ↓

北海道サケホッケニシンホタテカニそのときどきの御殿がありぬ

 

                 (添削後)

<添削のポイント>

一首の歌の題材として、土地と時代をおおきくとらえており、すばらしい着想、歌材だと思います。歴史的にとらえて間違いがないのであればこのままで結構です。ただ少し音韻にかかわることに触れるよい機会なので、ここは小田原が担当します。

 

提示した添削案では次の二点を考えて言葉の入れ替えを試みました。

 

ア、促音「ッ」、撥音「ン」がともに「半拍」(音符の半分の長さであること。特に「ニシン」の「ン」について。

イ、「ほっ」「かい」「どう」が、やはり字余りながら「短い二拍」ずつであること。

 

具体的にまとめると、「ほっ、かい、どう」のあとに「ニシン、サケ、ホッケ」となるよりは、「サケ、ホッケ、ニシン」であるほうが、「短い二拍」を「サケ」の二拍で受け、しかも第二句の末尾は「ニシン」で終わるため、字余りがほとんど気にならずに済む、という利点があります。また「とき時」の表記は、気まぐれな意味の「時々」と読まれないようにという作者の配慮を感じましたが、すっぱり「ときどき」と、すべてかなにするのが、よろしいかと思います。

 

     オントネー緑青赤いろいろと風雲光神宿りしか

 

                     (原歌)

               ↓

    オンネトー緑青赤いろいろと風、雲、光、神宿れるか

 

                     (添削後)

<添削のポイント> 

まずオントネーはオンネトーの誤植と思われますので、改めました。「風雲光神」と漢字を連ねる手法は短歌に多くありますが、このままだと「ふううんこうじん」と読まれてしまいます。そこで、「風、雲、光、」と読点を入れると良いと思います。また「宿りし」の「し」は、過去の助動詞「き」の連体形であり、風雲光に神が宿っているのは現在のことと思われますので、完了・存続の助動詞「り」の連体形「る」を用いてみました。

 

      北海道午後四時過ぎて暗闇を黙して走るツアーバスかな

 

                      (原歌)

                ↓

 

     北海道午後四時過ぎの暗闇を黙して走るツアーバスかな

 

                      (添削後)

<添削のポイント>

実はこの歌は添削はほとんど不要です。とてもいい歌だと思います。ツアー旅行の疲れ、はしゃいだ旅のあとで、北海道ですから午後四時を過ぎるともう暗くなったであろうなか、走っているバスの中が黙している、その感じがとても良く表れています。万全を期すとすると、「午後四時過ぎて」の「て」を、「の」に改めます。すると、助詞「て」の重なりも避けられます。

作者はこの三首とも定型にきっちり収め、雄大な大自然をよくとらえ、うたごころが溢れています。この調子でどんどんこの作者らしい歌を詠んでいってほしいと思います。 


 

編集作業上、原稿をお預かりしてから少し日が経ちましたが、新年のこの機会に、新メンバー「みっちゃん」の作品を紹介させていただきます。

 

 

2014.11,26                     作者:みっちゃん

 

① なつかしく父、母、祖母の面影を想い起す秋の夜長や

 

                     (原歌)

               ↓

なつかしく父、母、祖母の面影を想い出すなり秋の夜長や

 

                      (添削後)

 

<添削のポイント>

四句が六音で字足らずとなっているので、「想い起す」を「想い出す」とし、断定の助動詞「なり」で収めました。

 

②  故郷を遠く離れて幾年か懐かしきかな友の面影

 

                      (原歌のまま)

 

 ③  鉄研に入りし孫の笑みをみて自慢の孫とひとりほほ笑む

 

                       (原歌)

               ↓

鉄研に入りたる孫の笑みをみて自慢の孫とひとりほほ笑む

 

<添削のポイント>

鉄研とはいわゆる「鉄道研究会」のことでしょう。二句の「入りし(はいりし)」の「し」は過去の助動詞ですが、孫が鉄研に入っているのは現在の事と思われますので、「入りたる(いりたる)」と、存続の助動詞「たり」の連用形「たる」を用いました。

 

この作者の歌は、基本的に整っています。「面影」の多用とか、「孫」の重なりとか、考えるべき点はいくつかあるのですが、まずは、素直な感慨をストレートに歌にしている点を、大いに買うべきと捉えています。

 

 

 

2014.11.19                   作者:文ちゃん


 

  古希過ぎて孫らとプール遊園地アイスクリームあ幸せいろ

         

                         (原歌)

            ↓

 

古希過ぎて孫らとプール遊園地アイスクリーム 幸せのいろ

       

                         (添削後)

<添削のポイント>

基本的に定型にきっちり収まっていてよいのですが、「あ幸せいろ」では、「ああ」の誤植?と取られるきらいがあります。作者の発見した「幸せいろ」という言葉を少しこわしてしまいますが、結句を強調するために一字アケとし、「幸せのいろ」で収めます。

 

  120記念式典花道と同窓会の会長終えぬ

 

                            (原歌)

               ↓

  120年記念式典花道に同窓会長役目を終えぬ

 

                            (添削後)

<添削のポイント>

これも定型に収まっています。ただ、「120記念式典」では少し分かりづらいので、「120年」と補足。また「花道と」よりは「花道に」のほうが通りやすいと思います。さらに、「同窓会の会長終えぬ」で分からないこともないのですが、より分かりやすくするために、「同窓会長役目を終えぬ」と補足してみました。

 

  久しぶり少年院で会う君は涙うるませ保護司に語る

 

                           (原歌)

             ↓

 

久々に少年院で会う君は瞳うるませ保護司に語る

 

                           (添削後)

<添削のポイント>

三首とも定型に収まっていて、まずはよろしいと思います。この歌については、初句の「ひさしぶり」は二句以降につなげるのにやや唐突で無理がある感じがしますので、形容動詞「久々なり」の連用形「久々に」としてみました。さらに細かいことですが、涙は「溜める」のであって、うるませるのは「目」か「瞳」という点にも留意し、「瞳うるませ」としてみました。作者の感慨が表れていて、いいお歌だと思います。

 

 

2014.11.14            作者:文ちゃん


 

① 久住の山丘ススキ太陽に照らされ光蔭いろいろと

                                       (原歌)

            ↓

 

  久住なる山丘ススキ太陽に照りてあれこれめぐる光蔭

 

                         (添削後)

 

<添削のポイント>

まず定型に収めることを考えます。四句の最初を「照りて」と三音にし、さらに「光蔭」を結句に持っていき体言止めとしました。

 

 

   吾よりも若く逝かれし教え子の在りし日思い愛しく哀れ

                                    (原歌) 

          ↓

 

吾よりも若く逝きたる教え子を思えば愛(は)しき在りし日の顔

 

                       (添削後)

 

<添削のポイント>

「逝かれし」の「れ」は助動詞「る」の連用形ですが、尊敬・受け身の二通りに取れ、紛らわしいので、ここは完了の助動詞「たる」を用います。また「かなし」「哀れ」「さびし」など直接的に感情を述べるのを避け、「愛(は)しき在りし日の顔」と、ここでも体言止めで収めてみました。

 

  岡城上りて見ればそれはもう幻想的な墨絵のごとし

                                    (原歌)

                ↓

  

岡城に上りて見ればいやまさり幻のごとく墨絵あらわる

 

                       (添削後)

 

<添削のポイント>

まず初句の四音を五音にします。「幻想的な」の「的」と「墨絵のごとし」の「ごとし」はどちらも直喩なので、「幻のごとく墨絵あらわる」としてみました。さらに「それはもう」は散文的な言い回しなので、「いやまさり」と改めました。

 

2014.11.11              作者:文ちゃん



  

   わが庭で巣立ちし鳩の家族連れ今朝もクークー遊びに来たり

                       

                         (原歌のまま)

 

   古希過ぎて作歌するとは吾ながらおかしくもあり嬉しくもあり

 

                         (原歌のまま)

 

   作歌作歌とあれこれ思い浮かべど遅々と進まず哀れなるかな

 

                        (原歌)

 

             ↓

 

  さまざまに歌作らんと思いつつ遅々と進まず哀れなるかな

 

                        (添削後)

 

<添削のポイント>

 

③の歌について

 

 上句を定型(五・七・五)に収めることを眼目に、作者の思い、言葉をそこなわないように、添削したものです。